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SNSから私を救う<私>の思想と哲学【問題提起編】 岩内章太郎著「<私>を取り戻す哲学」(講談社現代新書)

気が付けば、スマホを開いてスクロールしてしまう毎日。

何を見たいのか、何が本当に必要なのかわからない。

なぜ、スマホを見続けてしまうのか?

御多分にもれず、私もスマホをなんとなくみてしまう毎日です。最近はちょっと油断したら、ちょこちょこnoteやらⅩやらのSNSを見てしまいます。

もちろん学びになることも多いので、だめだというわけではないのですが、一方で、だんだんSNSのほうに自分が支配されているような感覚に陥ることがあります。
何か私の中で、大事なものを失ってしまうのではないかという漠然とした不安があります。

この問いに、哲学の視点から考察した一冊です。

著者は、哲学の中でも「現象学」をベースにしていると思います。
「現象学」ってなんですか?って私に聞かれても困るのですが、著者は、「現象学」を研究している竹田青嗣さんのお弟子さんです。


大学生のときに、竹田青嗣さんの「「自分」を生きるための思想入門」を読んで、あ、こういう世界の捉え方の発想があるんだと気持ちが楽になったことを覚えています。

今は、この本は絶版になってしまっているみたいなのですが、最初から第3章くらいまでが、すごく好きで今でもたまに読み直します。

最後までよめよ


竹田さんの哲学に特徴的な言葉は、「欲望」ではないかと思います。当時は、人間の欲望のことが書いてあった序盤が、何をやったらいいのかよくわからない大学生にはすごく響いたんだと思います。

そこで出てくる問いが、「私は、世界をどう捉えているのか」。

本書(岩内本)にもベースとしてこの発想が通底しているように思います。

と、長くなってしまいそうなので、前編・後編に分けます。

ということで

さて、本書(岩内本)ですが、個人的にはすごく大事なことがたくさん書いてあると思いました。大事なところが割と連続して、何回も、いろいろな言い方で、書いてある印象です。線を引くところが多くありました。

いいかえると、本質的な部分を「いろいろな言い方」で繰り返し述べているということができるかもしれない。ああ、これはそのエッセンスを一番いい形で自分の中に落とし込みたい。でも、その「いろいろな言い方」どれも良くてなかなか捨てがたいんです。どのエッセンスで<共有図書館>にぶち込んでおくのがいいのか。つまり、ベストオブ一文を選ぶのが非常に難しかった

しかし、考えすぎても仕様がないので、やれるだけやってみようと思います。

「絶対的正しさ」VS「人それぞれ」を乗り越える


いきなりすごいところからはじめますが、「この世には、絶対的真理が存在する」という考え方があります。

この考え方に違いが生じると争いが生じます。つまり、お互いがお互いの「絶対的な正しさ」を押し通そうとすると、争いが生じてしまう。「独断主義」と「独断主義」の争い。

そうすると「絶対的な正しさ」なんてものはない、「人それぞれ」がいいという相対主義的な考え方が出てきます。

でも、これでは、結局どこにも行きつかない可能性がある。

それだけではなく、すべてが「人それぞれ」だとしたら、我々は暴力を否定する術を失ってしまいます。つまり、「絶対的な正しさ」がないのだとしたら、私たちは無差別なテロリズムを否定する根拠を失ってしまう。

相対主義のもう一つの問題は、「絶対的な正しさ」がないのだとしたら、「正しさ」が、人気や多数決によって作られてしまう、ということにあると著者はいいます。

つまり、真偽や善悪とは無関係に「バズる」ことで「正しさ」が形成されてしまう。これをポスト・トゥルースの問題と著者は言います。

そこで、相対主義はダメだ!といって、「絶対的な正しさ」を打ち耐えようとしても、それは再び「独断主義」を引き起こしてしまう。

えー、じゃあいったいどうすりゃいいんじゃい。

<私>の有限性と絶対性

ここからの持っていき方が本書。
あーーなるほどなあー。って思ったし、最近界隈では、流行りの考え方なのかもしれません。

前に竹田さんも言っていた気がするし、本書でも展開されている。

本書は、デカルトに立ち還ります。

「われ思う、ゆえにわれあり」のやつです。

これが合ってる、間違っているというのは議論のあるところですが、ここでの着目点は、むしろ

「われ思う、ゆえにわれあり」以外はすべて疑わしい

ということではなのではないかと思います。

これを本書では、<私>の絶対性と有限性と言っています。


私の絶対性

<私>の絶対性 <私>は<私>から抜け出して、<私>の認識と客観それ自体の一致を確かめることができない。

例えば、私が「缶とペットボトルは分別しなければならない」ということを「絶対的な正しさ」と考えたとします。しかし、これはどう頑張っても、<私>は<私>を超えて、客観的な世界において、「缶とペットボトルは分別しなければならない」が本当に正しいのかを確かめることはできません。

「客観的な社会において、『カンとペットボトルは分別しなければならない』という真理が存在する」と私は考える、にしかどうやってもならない。

絶対的に<私>は<私>から抜け出せない。

これが、<私>の絶対性だと思います。

私の有限性

<私>の有限性 <私>の存在と認識は完全ではない。

さきほどの「缶とペットボトルは分別しなければならない」という私の認識は、当然ながら完全な認識ではありません。〈私〉からは見えていないいろいろな問題、いろいろな認識があるはず。

もしかしたら、例えば、戦火から逃げまどう人にとっては、「缶とペットボトルは分別しなければならない」は正ではないかもしれない。〈私〉には知りえないものが〈私〉にはある。

つまり、<私>の存在や認識には、限界がある。

これが、<私>の有限性だと思います。



二つの問いをどうやって回収するのか? 


ここまできて、

なぜ、スマホを見続けてしまうのか

という問いのはずが

相対主義も独断主義もダメならどうしたらいいのか?

という壮大な問いになってしまいました。

そのカギが〈私〉の絶対性と有限性

なんとも心もとない状況です。

しかし、本書は2つの問いを鮮やかに回収します。

ということで、私がうまく回収できるかは分かりませんが、次回は、回収フェーズですと思わせぶりにして「今日一日を最高の一日に

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