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【無職日記】汁なし担々麺

 渋谷のハローワークで失業手当の手続きを終えたらすでにお昼どきだった。長いこと勤めた会社を辞めたのは初めての経験で、慣れない書類の記入をし、難しい手引きとにらめっこしていたら、すっかりお腹が減っていた。ちょうどいい時間だし外食でもしようと、渋谷の坂を下りながら飲食店を探した。

 ハローワークのすぐそばには、シダックスカルチャーホールという大きな劇場があり、この日はちょうどM-1グランプリの一回戦が行われていた。
 私はお笑いが好きである。特にM-1は毎年の楽しみで、好きなコンビはYoutubeに上がる予選動画までチェックしている。この動画の音量がいつも小さく、電車内ではかなりボリュームを上げないと声が聞き取れないくらいなので、いつか改善して欲しいと思う。

 話がずれたが、そのM-1では毎年大会の後にドキュメンタリー番組が放送され、出場したコンビが漫才に真剣に取り組む姿がかなり感動的に描かれる。その中で予選のとき、会場近くで食事しながらネタ合わせしたり、先輩に奢ってもらい士気を高めたり、時にはカツ丼を食べて元を担ぐシーンがよくあるのだ。

 私はシダックスカルチャーホールの前に掲げられた、M-1一回戦のポスターが目に入りふと思った。

――この会場の近くで食事すれば、よくドキュメンタリーに登場する『予選前に腹ごしらえをする駆け出しお笑いコンビ』に出くわすかもしれない!

 当人達からすれば「見せもんとちゃうねん!」と大声で突っ込まれそうな事だが、私は妄想と興味本位で会場から一番近飲食店に入ることにした。

 シダックスカルチャーホールから道路を挟んで向かい側に汁なし担々麺のお店を見つけた。どうやらテレビや雑誌でも紹介されたことがあるお店らしい。入り口の自動ドアにはテレビ番組のスクリーンショットや雑誌の切り抜きがあちこちに貼られていた。

 価格帯をチェック。一番安い汁なし担々麺で千円。うん、これは高すぎやしないかと思う。私ではなくて『駆け出しお笑いコンビ』にとってだ。夢追い人はきっと金がないに違いないから、M-1一回戦の予選前に千円の昼食なんて高すぎるだろう。『駆け出しお笑いコンビ』にこの店で出くわす確率は低いかもしれない。

 他の店はないかと周囲をぐるりと見渡すが、価格帯的に問題なさそうなのはタリーズコーヒーくらいしかない。これから戦おうとする無名のM-1戦士がコーヒーとカフェ飯で満たされるものだろうか?いや、しっかり食べて喝を入れたいところだろう。
 あと、考えつくとすれば近所の公園である。売れっ子のお笑い芸人がテレビやラジオで無名時代のエピソードトークをする際、居酒屋に行く金がなかったから近所の公園で仲間と缶ビールを飲んでいたと話すのはよくあること。この会場の立地なら公園でコンビニ飯という選択もあり得る。

 その時ふと我に返った。自分はなぜわざわざ公園でコンビニ飯してまで『駆け出しお笑いコンビ』に出くわしたいのかと。

 別に話しかけたいわけじゃない、応援しているわけでもない。ただ二人で肩を並べて「緊張するな…噛んだらどうしよう」「あれだけ練習したんだから大丈夫だって」「だよな、飯食ったら最後にもう一回ネタ合わせしようぜ」「ああ、一回戦絶対突破しよう。有名になってもっと豪華な飯が食いたい」「おう!」みたいな会話を盗み聞きしたい。社会人になって忘れてしまった青春の1ページを感じたいだけである。

――何を考えてたんだ、自分は…
汁なし担々麺を食べて帰ろう。

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