百人一首「わたの原~」の歌人、「参議篁」こと小野篁公のご生涯
土地を海に囲まれ、生活の身近に海が存在する日本。
7月の第3月曜日は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨とする国民の祝日・海の日でした。
海が身近な日本では、最古の歌集・万葉集や百人一首など、古くから海に関わる歌が多く詠まれてきました。
当社御祭神の小野篁公も海の歌を残しており、その歌は百人一首にも撰されています。
わたの原 八十島 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
参議篁
小倉百人一首でお馴染みのこの歌、一見すると「いざ、大海原へ漕ぎだす冒険の歌」にも見えるかもしれませんが、実は都を離れて隠岐に旅立つ際に詠まれた、「流罪に沈む寂しい旅立ちを詠んだ」悲しい歌です。
◆「最後の遣唐使」小野篁
篁公は遣唐使の副使に選ばれましたが、二度にわたり渡航が失敗しています。
その翌年の三度目の航海の際には遣唐大使の第一船が損傷し、篁公が乗船予定だった第二船を第一船と取り換えて乗船するという事態に見舞われてしまいます。
その際、渡航のリーダーである大使の、部下に損害を押し付けるような振る舞いに怒った篁公は猛抗議。
持病と老母の世話を理由に、損傷した船への乗船を拒否し、遣唐使の一行は篁公を残して中国に渡ります。
この裁定に不満をもった篁公は、怒りに任せて『西道謡』という漢詩を作り、遣唐使は時代遅れだと朝廷を痛烈に風刺します。
結果的にこれが最後の遣唐使となるのですが、この歌を知った嵯峨天皇は、看過ならぬと篁公を遠流の刑に処されました。
流罪の中でも最も重い刑に処された篁公は、失意の中で京都から瀬戸内海経由で関門海峡を通る長い海路を経て、島根にある隠岐の島へと向かいます。
その流刑地への出立の時に詠まれた歌こそが、この悲しみに暮れた「わたの原~」という歌だったのです。
そんな背景を知ると、百人一首で慣れ親しんでいる「わたの原~」の歌の印象も変わってきますよね。
◆傑出した才で1年余りで政務に復職
また、「わたの原~」以外にも配流の道中に詠まれた『謫行吟』という七言十韻が京の都で大流行。
その壮麗な文章と優美深遠な趣きに、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという伝説が今も残されています…📚
篁公は配流の中にあっても、卓越した詩歌を歌い続けることでその才を惜しまれ、あまりの能力の高さに1年余りで早々に流罪を解かれます。
その後、篁公は参議という国の要職にまで出世し、後世に多くの逸話を残す大人物となっていくこととなってゆくのです…!✨
ちなみに余談ですが、小野篁公は最初の遣隋使として、日本の外交の先駆けとなった小野妹子の子孫にあたります。
最後の遣唐使に選ばれたのは篁公で、その遣唐使を最終的に廃止したのは当社御配神の菅原道真公。
遣唐使を巡る御祭神、御配神の数奇な縁に、なんだか運命めいたものを感じてしまいますよね…✨
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