見出し画像

何かが始まっている気がする

書きたいことは山ほどあるのにまとめる時間がない。4月に入ってからはリハーサル〜レコーディング〜ライブ〜ライブ〜レコーディング〜ライブ、そしてライブ。週明けは1日置いてライブ〜レコーディング〜ライブ〜ラジオ番組収録〜ライブと云う予定になっている。どうしてそんなスケジュールになってしまったのか。それもこれも先々の予定が決まってから、今の予定が決まるからであって、その辺りの目測を誤ったからに他ならない。その先もスケジュールは目白押し状態。まあそれはもう粛々とスケジュールに対峙するしかなく、全力全霊で臨まなくてはならない。がんばろうと思う。

ウマウマウー

漠然としか思い浮かべられないのだけれど、何かが始まっている気がする。自分たちのあずかり知らぬところで、自分たちの手の届かないところで、自分たちが思いもよらない、想像だに出来なかったことが始まっている気がする。それは自分たちが便利になったり楽になったりする一面もあるだろうし、自分たちが個々であることを失うような一面もあるだろう。もうストップは誰にもかけられないと思う。ノーコントロール。1950年代のSF小説にあるような、最も荒唐無稽で実現不可能と鼻で笑われていたようなことが、今現在自分たちの生活に自然に溶け込んで、なくてはならないものになっている。交通手段やパソコンもそうだし、携帯電話やスマホなんてのは最たるものだ。それらですらも時代遅れになってしまうような気がする。人間一人一人にAIのアシスタントが付いて、人間の動向をチェックし、サポートし、意思を通わせて、促したり牽制したり、その一生に寄り添うことになる時代もそんなに遠くはないと思う。別バージョンの地球幼年期の終わりであろうか。人間であること、生命が存在することすら超えてしまうのか。こんなことをさっき電車に乗っていて思い付いた。電車に乗っている時は色々なことを考える。人間の未来のことも、野球のことも、神奈川県知事のことも考える。

ウマウマウー

バカではいけないのか。エロではいけないのか。幼稚ではいけないのか。社会常識から逸脱することはいけないのか。個々の本質を覆い隠して一生を終えなければいけないのか。例え色々なことをパーフェクトにパスして一生を終えても銅像が建つ位のことではないのか。亡くなった六角橋サリサリカリーのマスターの言葉にあるように、一生は短い、人を憎んでいる暇などない、それに行き着く。愛を生きよう。その愛が不完全で不格好でもその愛に生きるしかない。僕が20代に加入していたバンドでは、曲の合間のMCでお客さんに「愛し合ってるかーい?!」と叫ぶ役割だった。今だからこそ本気でそれをやろうと横浜市営地下鉄に乗りながら決めた。次回から叫ぶ。

ウマウマウー

気取って偉ぶって口数少なくいればそれだけで尊敬されたり持て囃されたりするのだろうが、そんな尊敬とかはいらない。クレイジーケンバンドの歌詞ではないが、人を楽しませて笑わせる男になりたい。今までもそう思ってやって来た。これからもそうする。

ウマウマウー

今日はこんなことしか書けなかった。時間が出来たら腰を据えてゆっくり考えてゆっくり文章を書こうと思う。いつもそう思っていて、なかなか叶わないが。始まっていると云えばクレイジーケンバンドのニュウアルバムのレコーディングも始まっている。作業は急ピッチで進んでいる。今年の夏もお楽しみに。

末永くがんばりますのでご支援よろしくお願い致します♫