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楠木正成忠節考(弾丸旅行2日目①)

七日間の休み。もし旅行の予定を立てるとしたら、諸君ならどこに行くだろうか。娯楽の溢れる大都会で遊びつくす?それとも日常の喧騒から離れて温泉宿でしっぽりと寛ぐ?もしくは視野を広げて、一生に一度は行きたかった憧れの海外へと飛び立つのもいいかもしれない。

無限に広がる夢のような至福の時間。それが七日もの休日だ。

そんな黄金の休日を利用した一人旅の一日目。俺は昼は京都競馬場でギャンブラーたちの人込みに揉まれ、夜は群愛茶餐廳で金冠魚翅餃を好吃していた。それなりに充実した一日目だったと言えるだろう。

さて、常人なら旅行に出かけるにあたって一日目はここに行く、二日目はここへと予め予定を立てておくことだろう。だが非凡な俺はそんな真似はしない。宿泊先こそ決めていたものの、二日目の予定は全く立てていなかった。
その結果として俺はホテルに戻って早々明日の予定に頭を悩まされる羽目になった。




明くれば延元元年五月二十五日

朝。俺は早々にホテルを出ていた。時間は限られている。朝の内から神戸の名跡を尋ねると決めていた。俺がまず初めに向かったのは湊川公園だ。

ダイナミックな騎馬像が非常にカッコいい

湊川公園は一見何の変哲もない都会の公園だ。そんな公園の中に、でかでかとした銅像が鎮座している。湊川という地名から歴史好きならすぐに気づいただろう。ここは南北朝時代の英雄、楠木正成最期の地だ。

歴史好きなら誰でも知ってる名前だが、一般人の間で楠木正成の知名度はどんなものなのだろうか。この人物ほど、時代によってその評価が激しく上下する者もいないだろう。

楠木正成の活躍は軍記物語「太平記」で語られている。時は鎌倉時代末期、幕府転覆を目論む後醍醐天皇に見いだされた正成はあらゆる奇策を駆使して幕府軍を翻弄し、幕府滅亡の一助となった。ところがこの後、太平記のストーリーは足利尊氏や新田義貞らの戦いに移っていき、後醍醐天皇を支えた名将・正成の姿はほとんど映されない。

正成が再びフォーカスされるのは、事態が絶望的となった状況で、わずかな兵で兵庫に出陣する場面だ。奮戦虚しく湊川の戦に敗れた正成は、「七度生まれ変わっても朝敵を討つ」と誓って自害した。有名な七生報国の由来だ。


義を重んじ死を顧みぬは忠臣勇士の存する処なり

早朝の湊川公園は人影も少なかった

俺は初めて太平記を読んだとき、思ったより楠木正成の活躍の場面は少ないなと思った。確かに幕府軍と対峙した場面の諸葛亮もかくやという智将ぶりは印象に残るし、その悲劇的な最期も確かに感動的だ。

だが太平記の主役はあくまで後醍醐天皇や足利・新田たちで、正成はどちらかというと脇役でしかなかった。そんな歴史の傍流の中で埋もれていくはずだった正成だが、江戸時代の特に幕末にかけて天皇の存在が大きくなっていくと、正成は「天皇に忠義を捧げて潔く散った希代の忠臣」として再発見されることとなる。

明治時代に入るとその評価はビットコインの如く暴騰し、大楠公と称され神として祀られ、「日本人の鑑」として国民教育に利用された。戦前の日本で一番知名度があった歴史人物なのではないかと思うほど、楠木正成はあらゆる場所でもてはやされたのだ。

そして戦後。軍国主義の崩壊と共に楠木正成の名声も抹消された。かつてあれほど持ち上げられていた正成の名は手の平を返すが如く地に堕ちた。太平記が創作した架空の人物だとか、卑しい野盗の出身だとか、正成を讃えていた過去を必死で隠そうとするような極端な言説もあふれた。

今では流石にその歴史的評価は落ち着いてはいるが、いまだに正成の姿に軍国主義の亡霊もしくは戦前の栄光の残滓を見出そうとする人は後を絶たない。


正成未だ生きてありと聞し召し候はば、聖運ついに開かるべしと思し召し候へ

いろんな角度の大楠公像

歴史の流れの中で、勝手に持ち上げられて勝手に貶められた正成だが、歴史上の人間としての楠木正成とはどういうやつだったのだろうか。

後世に大忠臣として称えられる正成だが、果たしてそうやって歴史に名を残ることを期待して行動していたのだろうか。あるいは本当に無私の心を持って朝廷に仕えた正義の軍人だったのだろうか。俺はどちらもそうとは思えない。

太平記の中で語られる楠木正成と後醍醐天皇の出会いはなかなかに劇的だ。挙兵に失敗し、幕府軍に追い詰められた後醍醐天皇は、夢の中で自分を助ける「楠」という存在を知り、これを探し求めてついに楠木正成と対面する。これ以降、正成は後醍醐天皇に忠節を誓いその身を捧げるというわけだ。

ところで楠木正成の正体については今でも色々と説があるものの、おおむね一般的に言われるところでは正規の武士の出身ではないという事だ。河内地方の土豪だとか地元の成り上がりものだとか色々あるが、要するに世間から立派と思われるような社会的に認められた地位の出ではなかった。

そんな正成に、当時の社会の頂点である天皇が、それも窮地に陥って絶体絶命の状況で、顔も知らない正成だけを頼りとして探し求めたのだ。正成はいたく感動したことだろう。そしてこの感動が正成の忠義の原点となった。最も単純に忠義というより仁義だとか仁侠という方が近いだろう。

仁侠という言葉は今どき極道物の中ぐらいでしか聞かない。一つの恩を受けたなら例えその身を滅ぼしても恩に報いるという強烈な生き方は、正に極道の世界だ。正成が受けた恩とは、見出されたこと、ただそれだけだ。だが人に知られる、人に認められるという事は、現代においても大きな喜びとなる事に変わりはない。

七生報国の忠義の源泉には、楠木正成と後醍醐天皇との間にそれこそ極道のような、深い人間的な繋がりがあったからこそ成立した。そしてそんな正成の忠義は、盲目的に国に従わせ見ず知らずの人間のために死をも強いる軍国主義の忠義とは決して相容れないものだったに違いない。

そんなことを考えつつ、俺は朝日の中で物言わぬ大楠公像に別れを告げ、次の目的地・・・一ノ谷へ向かった。

(つづく)


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