小説にテーマは必要か
5月某日 曇り
なんだか鬱々として気が晴れない。助けが欲しくて、小説家の友人に電話。彼女の声は優しくて、電話越しでもコットンに化粧液が染み込むようにすーっと耳に染み込んでくる。
「まだこたつをしまってないんよ、なんだか涼しくなったり暑くなったりでわからんやろ、中学生の時からずーっと使ってるこたつなんやけど」と言う彼女の言葉に笑ってしまった。こたつでずっと書き物をしているらしい、子供の時から、何か一定のスタイルを持っている人を見ると羨ましいなと思う。何かを作るときの、自分なりのスタイルみたいなものが私にはないから。
「編集者さんにね、次に出す予定の長編小説を読んでもらったら、全体を通してテーマがあんまり打ち出されてないからテーマをもっと打ち出したほうがいいですよ、って言われた」という話をしたら
「それ!私もよく言われる、短編小説の連載をやっとるんやけど、担当さんから『次のテーマはなんとかで行きましょう』って言われるんよ。でもテーマって何?って感じやんなあ。どうしていいかわからんから無視しとる」という彼女。あ、よかった、他の作家さんも、編集者さんから提案された言葉にしっくりこない場合、しれっと無視したり、してるんだなあ、と安心する。
ものを書いていると、「テーマ」と言う言葉と自分が切っても切り離せなくなる。
「この作品のテーマはなんですか?」「この記事のテーマは?」って、しょっちゅう聞かれる、「ピュア」の発売記念インタビューでも、私は「女の強さが」とか「フェミニズム官能SFで」とか言うけど、本当は自分で自分の小説の首を締めているような気がして、やめたいなって思う。なんだかすごく狭い範囲に物語世界が切り取られている感じ、作者がそれをするのってもしかしたら作品にとってすごくかわいそうな事なのかもしれない。
「テーマってそもそも何?」
「わかんない。例えばどんな感じでFさんは編集者さんから言われるの?」
「えーっとな、例えば『Fさんは本業が作詞家だから、次の小説は作詞家が登場するのはどうでしょう?』とか」
「それ、テーマじゃなくてモチーフやん」
「そうやな」
「他には?」
「えーっと、あとは、『次はこんな風な往復書簡風の作品はどうでしょうか』って、『三島由紀夫のレター教室』が送られてきた」
「それ、テーマじゃなくて様式やん」
「……そうやな!」
こんな風にして、我々の行き場のない会話は続く。(しかし、その編集者さん、言っちゃ悪いけど作者に書かせるの、下手だな……)
「ちょっと待って、今ぐぐるから。…あ!
”テーマとは、主題、主旋律のこと”
って書いてあるよ!」
「主旋律!」
Fさんはもと音楽家なので、主旋律という言葉にはピンときたみたいだった。
「主旋律かあ。なるほどなるほど。でも私、主旋律のない音楽の方が好きなんやけど」
「そうなんだ。ジャズとか?」
「それもやし、この前ZOOMで20人くらいの音楽家と集まって一斉にセッションしたら、楽しかったよ」
Fさんの小説も、起承転結がない。特に骨子、みたいなものはない。それぞれの登場人物が天体みたいに好き勝手にのびのびと振舞って、物語が展開してゆく感じ。でもすごく自由を感じて、読み終わった時にほぅっとため息が出るような、そんな世界を描く人。
「テーマ、なんか考えなくてもいいのにな。創作って自由やから。でも本を売るためにはテーマって重要なんやろな。出版社的には」
「…そうだねー。テーマが決まってた方が、ターゲティングがしやすいからね」
本当に、テーマってなんだろうか。純文学の場合、テーマなんてものは必要ないとされていて、エンタメの場合は必要とされている(はず。よくわかんないけど)。私は本当は、テーマのない小説の方が好きだ。でも自分で書くときは、なんとなく、テーマ設定のようなものを(はっきりとではないけど、心のうちに)持ってしまう。それはやっぱり、人に読まれやすいとか、そっちの方が編集者さんには認められやすいとか、説明しやすいとか、もっと言うと、そういう安直でイージーなものじゃないと、市場で受け入れてもらえないんじゃないか、っていう、恐れからだ。
「でもさ、本当は、テーマがなにかわかんないけど書き進めて、それで完成して振り返った時に、あ、これがテーマだったんだ、って気づくぐらいの方がいいと思うんだよね」
「そうだね。わかるわかる」
話は変わるけど、『ピュア』が発売されて三週間、ポツポツと感想が届き始めた。書評なんかもしてもらえて、嬉しい限りだ。コロナ禍で多くの書店が閉まっている中で、不要不急の読書に力を注いでくれている方がいるってすごく嬉しい。
私が小説を書いていて一番楽しいことの一つに、「読者から感想をもらう」と言うことがある。
単に褒められていたら嬉しい、と言う以上に、読者の解釈を聞くことによって「あ、この物語ってこういう意味があったんだ」って気づくことができるから。
書いているうちは、一生懸命すぎて自分が何を書いているのかよくわからない。書き終わって他人の手に渡って初めて「あ、これってこう言う意味だったんだ。私が書いたものには、こう言う作用があったんだ」って気づく。
中にはびっくりするような解釈もあるし、あ、そうそうそう!それが言いたかったの!って私が言語化できないことを言語化してくれるような感想もある。
深く裏読みしてくれているやつも嬉しいし、
純粋に「読んでどこそこに行きたくなった」みたいなやつも、嬉しい。
作品単体が「陽」だったら、読者からいただいた感想が「陰」で、その二つが揃って初めて、物語の全体像が完成する、露わになる、そう言うイメージだ。
本当に、物語というのは受け手のものだな、と実感する。一人で書いているようで、一人では書いていない。受け手がいなくては成り立たない。
だから、テーマという単語が若干苦手なのかもな、と思う。作者が勝手にテーマを設定して、強く打ち出したような作品では、読者の「陰」を吸い上げられないから。感想が発生する前から殺してしまうような気がするから。
というか、それを勝手に設定することこそ、読者や小説の神に対しておこがましい気がする。
「我々の人生だってさあ、主旋律とかテーマなんてないじゃん、だから、小説の登場人物だって、テーマ通りに生きてるわけじゃないよね、ただそこに人がいて、彼らが生きたいように、生きてるわけじゃん」
「そうよなぁ本当に」
「でもさ、テーマはなくても、伝えたいこと、はあるよな。はっきりせんくても。
後から振り返って、それがなんとなーく、読者に伝わってるな、って感じられたら、それでいいのかもな」
ありがとうございます。