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大ベストセラー「鬼滅の刃」は世界最大のベストセラー「聖書」が精神の核かも

概要:この記事は私が微集中の常中で約3ヶ月間「鬼滅の刃」について考えまくっていたところ、おぼろげに立ち現れた仮説「鬼滅の“精神の核”はキリスト教信仰である」を軸に、聖書やキリスト教周辺について検証し大真面目に大仰に考えてみる、という内容です。

平たく言えば元ネタ的なものを挙げつつ検証する記事です。ただ、元ネタ探しが目的なのではなく、あくまで仮説を検証するのが目的です。鬼の首を取った様に元ネタを並べたい訳ではありません。が、並べてる感は否めずふがいなし。またキリスト教に関する記述について、当方初学者のため、初学者が陥りやすい勘違いをしている可能性が少なからずあります。不勉強で穴があったら入りたい。

*以下ネタバレを含みますのでご注意ください。

「自己犠牲」「潔癖さ」への違和感

まず私は、「鬼滅の刃」に強く心揺さぶられ感動すると同時に、何か強い違和感を感じていました。以下、嘘をつくと更に変な顔になるのでバカ正直に書きます。

鬼滅って、なんでこんなにもキャラクターが優しく無欲無私で自己犠牲的なんだろう。犠牲を美化しているのだろう。強い人間は犠牲になってもいいという、いわば優生思想の反転のような、功利主義的な思想があったりするのだろう。なぜ炭治郎は聖人のように完璧な人物として描かれているのだろう。

清く正しく慈悲深い」と同時に、どこか「潔癖さ」を抱えている。そしてそれらには何か「信念」すら感じる。なんなんだろうこれは。不思議に感じてたまらなかった私は、哲学書を読んでみたり宗教について調べたり伊之助の毛皮の位置の低さの絶妙さ加減を眺め悶えるなどをして、なけなしの脳みそをはたいて自分なりにうんうん唸って考え続けました。

すると聖書の中に、「火の柱=炎柱?」「光の子=光の小人?」「乳と蜜の流れる土地=甘露寺蜜璃?」などなど、鬼滅を思わせる要素がどんどん見つかり、元となっていそうな思想やセリフの原型を思わせるような聖句も多く見受けられたのです。それと同時に自分の中にあったさまざまな疑問が瓦解していきました。

「鬼滅の刃」とはキリスト教精神を換骨奪胎した少年マンガである 

自分が鬼滅に対して抱いていた強い違和感は、おそらく自分との「宗教の違い」によるものだったのだと。煉獄さんに言わせれば「価値基準の違い」なのだと。

鬼滅に通底している「無欲無私」「自己犠牲」は、言い換えれば「献身」であり、キリスト教を実践するとは、自分の人生を神に捧げる生き方をすること。だからこんなにも炭治郎はキリスト教徒の鑑として、真っ直ぐで慈しみ深く献身的で愛に溢れる、人間として完璧すぎて逆に恐ろしさすらも感じる人物像として描かれているのだろうと。

「鬼滅の刃」とは、キリスト教精神を換骨奪胎した少年マンガなのだ。おそらく。そう仮説を立てるに至りました。

キリスト教に親しみのある方は、もしかすると鬼滅を読めば上記のようなことはすぐ感じ取られて、「あ、知ってた」と思われるかも知れないです。ですがあまり親しみのない人間にとってはなかなか気がつきにくいものでした。

鬼滅は「お掛け漫画」的?

なぜなら鬼滅は全体的には和風で、仏教や神道、日本神話など、東洋的なモチーフをまとった作品で、キリスト教の要素は殆ど感じられないからです。

表向きは仏教や神道をまとい、内実はキリスト教。つまり鬼滅はミスリードを誘う、隠れキリシタン的な作品とも言えるのかも知れません。(なおここでのキリシタンという言葉は昔弾圧を受けていたころのキリスト教徒のことを意味しており、差別的な意図はありません)「お掛け絵」という一見仏教画のようにも見える、キリシタンの聖画がありますが、それと近い存在に感じています。

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受胎告知をモチーフとするお掛け絵
出典元:http://2wings.blog59.fc2.com/blog-entry-137.html?sp

ですので、もしももしも、三億に一、本当に私のこれら仮説が当たっていて、先生がキリスト教の要素を含んでいることを何らかの理由で本当に隠されたかったのであれば、この記事はそのことを明かす様な内容ですので、よろしくないですよね。ですが初学者の私でも気がつくフワフワな隠し具合であると思われ、また大メジャー誌週刊少年ジャンプ掲載作品であり、あまたいる読者の中には気がつく人がそれなりにいるあろうことはおそらく先生の想定の範囲内であろうと判断し、記事として書くことにしました。

鬼滅自体も隠れキリシタン的という入れ子構造

私の想像をラスボス赤ちゃん無惨レベルに巨大に膨らませていきますと、鬼滅の刃のストーリー自体が「隠れキリシタン」のストーリーであるようにも感じられます。政府非公認の組織だった鬼殺隊とは、隠れキリシタン信仰組織のメタファーなのではないかと。すんごくざっくりストーリーを説明すれば、鬼滅とは隠れキリシタンたちが悪魔退治をしたり罪人を罰し回心させる話なのではないでしょうか。(追記:なお禁教令中の隠れキリシタンは厳密に言うと潜伏キリシタンが正式表現かもしれませんが、ここでは一般的に浸透している隠れキリシタンの表現で統一します)

根拠とおぼしき小ネタ一覧

以下、根拠とおぼしき小ネタたちの一部を列挙してみたいと思います。煉獄とルカはおそらく誰でもわかるネタだと思われます。一応お断りしておきますと、これらは他サイトの情報をパクッた寄せ集めではなく、私が汗水たらさずむしろかじかんだ手でマウスをクリックしまくり行なった調査とつぶらな脳みそと異様な妄想力による結晶です。(ただ説明文の一部は他サイトを参考にさせていただいてます)

・カクシ=カクレ=カクレキリシタン。直球ですね。キリスト教が世に広く受け入れられた理由のひとつは、キリスト教徒が世間の病人や貧窮者対して献身的であったからと言われています。つまり他者に奉仕するキリスト教徒の無償のボランティア精神が世に高く評価された、ということだと思います。その文脈で考えますとカクシたちは、キリスト教徒のボランティア集団であると考えられます。
またカクシたちは政府にバレないように隠蔽も行なっていたようですが、それが意味しているのは禁教令の中、自分たちがキリシタンであることがバレないように隠蔽していた、ということではないでしょうか。なお、かくれキリシタン信仰は現在も続いているそうです

禰豆子=平戸島の西側の根獅子(ねしこ)=平戸島は長崎で最初にキリスト教が布教された場所で、根獅子には平戸切支丹資料館があり、平戸のキリスト教の歴史や隠れキリシタンに関する資料などが展示されている。

・炭治郎の無意識領域の風景=ウユニ湖=天国に一番近い場所とも言われています。聖人の炭治郎は天国に近い場所にいる、天国に行ける、ということを暗示しているのではないかと思います。

炭治郎の無意識領域の光る小人=光の子=キリスト教では、クリスチャンのことを光の子と表現することがあります。聖書にはイエスを信じる弟子やクリスチャンのことを表す「光の子」という表現があるのです。

・冨岡義勇=富岡町キリシタンで有名な天草四郎の出身地である肥後天草。富岡城が有名で、藩による重税とキリシタン迫害を受けていた天草の領民は、天草四郎を盟主として島原・天草一揆を起こす。富岡城代の三宅籐兵衛は唐津藩兵を率いてその一揆軍と戦った。

冨岡義勇義勇兵十字軍の際に「神の意思」(voluntas) に従うひとを意味した志願兵のこと。(出典元:wiki)  ボランティアの語源。なお、直接の語源はvoloで意味は「欲する」「求める」「願う」。

煉獄さんの好物さつまいも=ザビエルが上陸したキリスト教伝来の地、鹿児島県の指宿市山川町浦向は、さつまいもが上陸した地でもある。

・煉獄=そのまま煉獄。カトリック教会の教義で、天国と地獄の間にある、罪を浄化する場所とされる。他の宗派にはない教義のため、おそらく煉獄家はカトリックの家系なのではないかと思われます。

煉獄◯◯寿郎=キリスト教には棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)という記念日があるので、おそらく棕櫚(しゅろ)から。トウジュロ(唐棕櫚)、ワジュロ(和棕櫚)などがあります。また棕櫚は絵画では殉教者勝利の象徴。花言葉は「勝利」「不変の友情」。

煉獄寿郎=(マキ)=禰豆子の名前の由来にも登場しました、長崎で最初にキリスト教の広まった平戸市の市の木特にイヌマキがよく生育する土地なのだそう。

煉獄寿郎、寿郎=千は=おそらく十字架をイメージした名前。隠れキリシタンは名前に「」を入れることがあったそう。

煉獄寿郎=日本一慈しい鬼退治だから?あとはトウジュロ(唐棕櫚)でしょうか。

煉獄瑠火ルカ=新約聖書『ルカの福音書』『使徒の働き』の著者。「歴史の表には出ることなく、むしろ出ようとはしないで、自分の果たすべき役割を全うしました。」(引用元

鬼殺隊の隊服=パッと見は学ラン風ですが修道服風にも見えます

ふく

隊服 出典元:https://www.cosbravo.com/product/6780
修道服 引用元: https://www.maskworld.com/english/products/costumes/theatrical-theatre-210/religious-religions-2110/priest-costume-black-costume

宗教の根幹は似ている?

ただ、仏教やイスラム教、キリスト教などの宗教は、根本的な思想自体はそれなりに似通っているようで、逆に言えばその根本部分は、いずれの宗教にも解釈可能なのかもしれません。(有名なところでは、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教はいずれも唯一神「ヤハウェ」を信仰している一神教)

そう考えますと当然ながら、キリスト教以外にも、他の宗教や何かモチーフがあったりもするのかも知れません。

「鬼滅の刃」最終巻ラスト8ページと聖書

ただ、モチーフとして仏教や日本神話等が数多く用いられていたとしても、やはり作品の根幹である思想自体は「キリスト教」にあるのではないかと思っています。

鬼滅の物語の大団円、最終巻のラスト8ページなどは、作品の中でもっとも聖書的に感じられた部分です。

生まれてくることができて幸福でした

どうか笑顔を忘れないでください
あなたが泣いていると
悲しくてたまらなくなる

(略)

胸を張ってください
あなたと出会えたことが 何よりの幸運
そして幸福だった

あなたの存在が私を救い
孤独も全て蹴散らした

あなたを想うとき
燃えるような力が体の奥から湧いてくるのです

(略)

けど選べるだけ まだ幸せです
本当につらいことは雪崩のように
一瞬で人を飲み込み
何も選ばせてはくれない

(略)

幸せは長さではない
見て欲しい 私のこの幸せの深さを

自分のことが不幸だななんて
思ったことは一度もない

諦めず逃げ出さず 信じ続け 

いつだって その時自分にできる精一杯をやりました

たくさんの強い想いが 大きな大きな刃となり
敵を討った

(略)

精一杯生きてください
最愛の仲間たちよ

(出典元:鬼滅の刃 コミックス23巻)

ここでの「あなた」とは、「」「イエス・キリスト」「キリスト教」のことではないかと思われます。そう仮定して読むと文章全体がとてもしっくり来るのです。

「キリスト教に出会えたことが 何よりの幸運で幸福だった」
「神の存在が私を救い孤独も全て蹴散らした」
「神を想うとき 燃えるような力が体の奥から湧いてくるのです」

おそらくこれは、生き残った炭治郎たちに向けた言葉というよりも、若き殉教者たちが神に捧げた祈りの詩であり、仲間であるクリスチャンへ捧げた祈りのでもあるのではないでしょうか。

以下は、この部分の原型を思わせるような聖句や、似た雰囲気の思想を感じる聖句です。

悪しき者は悲しみが多い。
しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
正しき者よ、主によって喜び楽しめ、
すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
(詩篇 32:10-11)

わが神、主よ、
わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、
あなたはわたしをいやしてくださいました。
(詩篇 30:2)

このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも
その身に及ぶことはない。
あなたはわたしの隠れ場であって、
わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。
(詩篇 32:6-7)

味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
主を畏れる人には何も欠けることがない。
(詩編 34:9-10)

神に従う人の若死に
神に従う人は、若死にしても安らかに憩う。
老年の誉れは長寿にあるのではなく、
年数によって測られるものでもない。
人の思慮深さこそ白髪であり、
汚れのない生涯こそ長寿である。
(知恵の書 4:7-9)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
(ヤコブの手紙 1:19)

全体的な雰囲気としては、聖書の「ヤコブの手紙」と雰囲気が近い様に思いました。あのラスト8ページとは、吾峠先生による口語訳聖書(聖句)とも言えるかもしれません。

最期に彼らが告げた言葉が聖書の言葉。「鬼滅の刃」の締めくくりが聖書。そう考えると作品の中でキリスト教が、聖書が非常に重要な意味を持っている、と考えるのが自然ではないかな、、、?と思われます。

「鬼滅の刃」とは「神」という言葉を用いずに語られた、キリスト教精神を伝えるマンガ?

他の元ネタ的なものをご紹介して話を横に広げるのは次回以降にするとして、今回は話を先に進めて一旦結論を出したいと思います。

おそらく作品の中でキリスト教は重要な存在。根幹。
つまり価値観、哲学、倫理観などといった鬼滅の持つ思想の根幹部分は、基本的にはキリスト教に基づいているのではないかと思われます。もちろん思想全てを聖書に依拠しているのではなく、吾峠先生ご自身のお考えによる部分も多くあるのだとは思います。その境界線は当然ながら私たちにはわからない部分です。

なぜ隠れキリシタン的に、作品の内奥にキリスト教が秘められているのでしょうか。ジョジョの様にもう少しわかりやすく、キリスト教らしさを前面に出すことも可能だったのではないかと思われます。

もしかすると、、、ですが、吾峠先生は、宗教に偏見や抵抗感を持ちやすい日本人でも、キリスト教の「愛」「赦し」「献身」などの精神に触れられるようにあえて配慮されたのかもしれません。逆に言えば、作品を偏見の眼差しで見られたくなかった、うがった見方で受け取って欲しくなかったのかもしれません。

「神」のような宗教的キーワードは、日本人がアレルギー反応を起こしやすい。宗教だと感じると身構えてしまう。そして難解さを持った高尚な存在にも感じられ、肩肘張った印象がある。そのため、先生の天才的な表現技術とバランス感覚と博識さと情熱によって、キリスト教の思想を日本人にとって親しみのある、アレルギー反応を起こしにくい「神さまレス」な漫画表現へと昇華された、、、ということなのかもしれません。

おそらく吾峠先生は、キリスト教精神の素晴らしさを作品にしたかった。それを通じて素晴らしさを私たちに知って欲しかった。受け入れて欲しかった。伝えたかった。宗教に興味のある人だけに宗教を伝えるのではなく、そうではない色んな人に、偏見のない素直な心でキリスト教に触れて欲しかった。それが「鬼滅の刃」という作品を描く大きなモチベーションになられたのではないか。そんな風に私は想像しています。

少年マンガという、とてもカジュアルでフレンドリーでエンターテイメントな装いをした、キリスト教の深淵な精神を持つ作品。それが「鬼滅の刃」。ということなのかもしれません。気持ちが昂まりルー語になりました。

これについて、イエスの見た目は神様っぽくなく、ごく普通の人だったということが思い出されます。

彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
(イザヤ書 53:2)

この箇所からわかるのはイエスの外見は他の人々と同じで、普通だったという事です。イザヤがここで言っているのは、来たるべき苦しみを受ける神のしもべはへり下った形で来られ、世界の王であるという事実を明確にさせる形で、きらびやかな形でこのよに来られるのではないという事で、イエスの本当の姿は信仰の目によってのみ見えるという事でした。
出典元:イエスはどういう見た目だったの?

そして空前の大ヒット。多くの人々が、心揺さぶられたり、感動し涙したりしています。ときには「道徳書」のような存在としてもフィーチャーされています。つまりキリスト教のエッセンスは確実に一部の人に、おそらく多くの人に伝わっている、ということでしょう。吾峠先生は本当に嬉しく感じられているのではないでしょうか。

「鬼滅の刃」とは「種」である説

聖書の中の有名なたとえ話に「種を蒔く人」というものがあります。ぜひ原文を読んでいただきたいのですが、自分なりに超訳してみますとこんな感じです。(原文よりわかりづらくなった気もしつつ)
(原文:マルコによる福音書 4)

イエスの話を聞きに集まった群衆に、イエスはこんなことを話しています。「は、芽生えそうなところだけではなく、芽生える可能性が低そうなところにもふんだんに撒く。ケチらないでじゃんじゃん撒く。もしかすると、その中のいくつかはひょんなことから芽が生えるかもしれない。そこから莫大なが生まれるかもしれない。」

弟子はイエスに聞きます。「なんでそんな遠回しな、わかりづらいたとえ話を使って話すのですか?」

イエスはこう答えます。「たとえ話の方が誰でも話を受け取りやすい。そして、そのよくわからない話を聞いた時、「ふーん」とスルーする人もいれば、文字面だけを追う人もいる。その一方で、一体どういうことなんだろう?と真剣に考える人がいる。どんなにいい話をしたところで、その話がちゃんと届くどうかは、結局その人の本気で聞こうとする意思があるかどうかにかかってる。その中に、話の真意である神の御言葉を理解して受け取り、信仰する者が出てくるかもしれない。そしてその中から、伝道者になる者が出てくるかもしれない。だから、種まきは無駄も多いし苦労も多くて報われないことも多い。それでも精一杯、惜しみなく種を撒く。」

このたとえ話でいう「」とは「神の御言葉」のことです。つまり種をまくとは、キリスト教を伝道することを意味しています。

吾峠先生がなさっていることは、もしかするとこの「種まき」、、、なのではないでしょうか。

キリスト教の精神を、エンタメ冒険活劇というオブラートで包み隠すことで、世に広く行き届かせ、そしてどこかの誰かはオブラートの中の真意を受け取り、何らかの実を結ぶのではないか。先生の真意は勿論わかりませんが、そんな風に私は想像しています。

想いは不滅

キリスト教は代々伝道者が死してもなお信仰は伝えられ続けており、神は今も人々の心の中に生き続け、心を明るく照らしている。蒔かれた種は実を結び、またその種が撒かれて実を結ぶ。神は不滅。信仰は不滅。「想いは不滅」。

慈愛に満ちたキリスト教の想いを伝える。これを現代的な形で見事に体現された作品。それが日本一慈しい鬼退治 「鬼滅の刃」。

現時点で、私は鬼滅をそう解釈しています。

さいごに

今回は取り急ぎ、仮説をまとめてみました。次回以降こまかな元ネタ的な部分と、その考察を書いてみたいとと思います。

それにしても聖書って普通に読んでみても本当面白いですね。端正で力強い美しい言葉たちに、気迫ある表現に圧倒されます。心を揺さぶられます。ユニークな言い回しも多く、ユーモアも感じます。さすが世界一のベストセラー、正典です。こうして私みたいにキリスト教に興味を持ち、聖書を鬼の様に貪り読む人間が出てきたら、先生もニヤリ…だったりするのかもしれません。

きのうはクリスマスでしたね。一応、聖書に興味を持たれた方のため、無料で聖書が読めるサイトへのリンクを貼っておきます。アプリも使いやすいです。なお、初めて読む人は最初から順に読むよりも、理解が進みやすいオススメの順番があるようです。ぜひ調べてみてください。
https://www.bible.com/ja 

以下、クリスマスということでオマケです。

「イエス・キリストがまれた屋敷の上で星は耀=産屋敷耀哉。

光り輝き、学者たちを導く不思議なクリスマスの星。その下にあった馬小屋で生まれていたのが神の子、イエスです。「耀」は「霊耀」「光耀」など、不思議な輝きを意味する様です。

おそらく作中では、産屋敷耀哉はイエス・キリストのポジションとして描かれているのではないかと推測しています。このあたりは次回以降書きたいと思います。

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