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投げっぱなし謝罪

東京大空襲が10日、東日本大震災が11日。
毎年3月10日の夜になるとそれを想う。
想うことしか出来ない。
ただ想うことが大事なことなのだと信じよう。

最近、立て続けにお笑い芸人の謝罪みたいなものをみかけた。
動画を削除したとか謝罪動画とかネタへの非難とか。
笑いのネタはどこかに風刺がどうしても入るものだから避けられないものなのかもしれない。
実際にそれは昔っからあるもので、それこそドリフでもひょうきん族でもPTAから叱られたなんてことはずっとあった。

ネタにしてはいけないことはある。
多くの人を傷つけてしまうようなネタはやはり良くない。
差別に繋がるようなネタもよくない。
難しいのは芸人は笑わせようとしているだけで、傷つけようとしているわけではないということだ。
それに実は日常的には笑っていることでも、メディアでやると問題が起きるみたいな笑いも数多くある。
突き抜ければ大きな笑いが生まれるけれど、どこに線引きするのかっていうのはそれぞれの判断になるのだろう。
だからこそ時代に鋭敏にならなくちゃいけない。

ただいつも思うことなのだけれど。
笑いの世界でネタが問題になった時って結果的にどうなるかというと。
それが話題になって議論になって、大きな認知を獲得して。
問題になったからこそ、改善に向かうというケースがほとんどだという事実を見逃してしまっていいのかなぁとは思う。
最近の共感のネタで、調剤薬局でのやりとりを必要ない!と言って、薬剤師さんからクレームがあって芸人さんも番組側も謝罪をしたとかがあったんだけれども。
結果的に、ああそうなんだ。そう決まっていることなんだ。あれはとても大事なことだったんだっていう認知が拡がった思う。
この問題がなければ一生、同じような疑問を持っていた人たちがたくさんいたんじゃないだろうか。

それってまさに風刺の本質なんだよなって思う。
問題になったのだから良くないことなんだけれども。
もう少し枠組みを大きくしてみると風景が変わってしまう。
風刺が問題を生み議論を呼び起こして認知を拡げる。
直接的な批判には出来ない、笑いを介しているからこそ出来ること。
無意識的だった差別を意識的にしたり、そういうことがこれまでに何度も何度も起きてきたことを僕は目にしている。意図的ではないにしても。

東日本大震災の直後。
テレビからお笑いが消えた。
芸人は自粛したし、テレビ局も自粛した。
実際にあの時に放送されても上手に笑える自信もなかった。
とてもじゃないけれど風刺にもネタにも出来ないことだった。
笑いが多くの被災者の皆様の救いになったのは少し時間が経ってからだ。

賛否が起きても永遠に平行線だろう。
賛は、笑いなんだからさと口にして。
否は、ネタにしちゃいけないだろうと口にする。
完全にかみ合っていない。
そして賛否の意見とは別の場所で議論が生まれる。
議論から認知まで結果が生まれるとそこから先は誰もネタにしない。
もう誰もが笑うネタではなくなっているからだ。
そういう意味では思わず笑っちゃう場所には問題が隠れてる。
ギャップが笑いを生み出すのだから、そこには小さな格差がある。

昔の芸人さんは特に謝罪なんかしなかった。
粛々と、そういうことならそれ以降はもうネタにしないだけだった。
笑いにならないなら意味がないから。
実はそれだけでもう風刺の役割を終えている。

恐がって、誰も風刺をしない世の中になることの方が恐ろしい気がする。
謝罪をきちんとすればいいさと図太いメンタルを持っていられれば別だけれどさ。
なんだろう。謝罪っていつも投げっぱなしなんだよなぁ。
謝罪に返答があってもいいと思うんだよ。
勝ちとか負けとか賛否とかの二元論で終わってしまうのはいつもモヤモヤする。
風刺することで顕在化するようなことはきっと議論するべき事ばかりだからだ。

お笑いに出来ないことはさ。
ほんとうにつらくて悲しい記憶ばかりだ。

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