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孤独感と疎外感

何か創作する人にとって一定の孤独は必要だ。
別にそれは一人でいられる空間や時間が必要というわけでもない。
大勢の街中を歩いている時でも孤独感の中にいることは可能で。
自分の内側から湧き出るものをただただキャッチする。
自分の頭の中でしか生まれない何かをみつめる。

創作をしない人もきっとそんな孤独感は持っていると思う。
アウトプットするかどうかの違いだけだ。
頭の中に思い浮かんだものをどう形にしようか。
あるいはすでに形として思い浮かぶこともある。
それは何かに刺激を受けた結果だとしてもやっぱり孤独から生まれてくるものなのだろうと思う。

多くの人が混同しているのが孤独感と疎外感の違いだという。
孤独感というのは自分の内側を見つめるようなこと。
疎外感というのは周囲に対しての自分の存在が軽く思えること。
実はほぼ正反対の事なのだけれど結果として同じように見える。
集団の中での立ち位置のようなものは大して変わらないからだ。

疎外感は現代的な社会的心理圧迫から生まれる錯覚も多いのだという。
実は想像しているよりも多くの人が感じているのだそうだ。
孤立していると感じてしまう場面が知らないうちに人を圧迫していく。
だからそもそも孤独のようなものを持っている人はかえって疎外感を必要以上に感じることは少ないのかもしれない。
逆を言えば孤独を抱えている人は社会性に乏しいのかもしれない。

周囲に馴染む必要なんてないさとそもそも思っている人と。
周囲にどうしても馴染まないなぁと感じている人と。
そういう人と人とがないまぜになって生きている。
何が孤独で、何が疎外で、境界線ははっきりしているはずなのに。
そこに存在するだけで境界線が曖昧になっていく。

心を許せると思えるような人とケラケラ笑いながら話す。
それだけで済めば良いけれど、なかなかそうもいかない。
なんとなくその場限りだったり、心までは開かない関係性もあるさ。
目を凝らしてみれば人気者に見える誰かも密かに疎外感を感じているのだなぁと気付く瞬間があって、その必死さに無理しなくていいよとそっと呟いてみたりする。
だからと言って、孤独な人になる必要もないのだけれど。

誰かがよろけたとき。
さっとよけるのか。
すっと手を出せるのか。
それだけでいいのかもしれない。
そこには孤独も疎外も存在しない。
深い関係性だって存在していない。
同情でも哀れみでもない。

結局僕らは全員、同じ旅の一座だ。

ああ、君は根が優しい人なんだねえと。
どこかで誰かが気付いている。
すくなくとも、僕がそれを知っている。

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