見出し画像

この世界が自分の生み出した妄想ではないことの証明

僕は今は余りゲームというものをしない。
でも子供の頃なんかはファミコンが流行ってゲームをしていた。
あの頃のゲームはほとんどがひらべったかった。
視点は上からだったり横からだったり俯瞰の位置にあって。
狭いモニターの中をコントローラーで押した方向にキャラクターを動かすのがゲームだった。

3Dの表現が可能になってから、レースゲームなんかからはじまってゲームの視点は操るキャラクターの視点でコントロールできるようになっていった。
ゲームセンターなんかでガンゲームなんかも自分視点だったけれど。
それよりもずっとリアルに近いものになっていった。
僕は自分視点に進化した頃からどうにもゲームが馴染まなくなっていった。
というか、ものすごい違和感を感じたからだ。

というのも、かつてはコントローラーを押した方向にキャラクターが動いていたのが自分視点になってから感覚的に逆になったからだ。
3Dの自分視点ではコントローラーで押した方向の逆方向に景色が流れていくのだ。
まぁ、当たり前と言えば当たり前なんだけれど。
僕たちは前に進めば景色は後ろに流れるし、右を向けば景色は左に消えていくのだから。
操る登場人物の視点になった時点でそうなることが普通だ。
けれども、なんだか僕には感覚的に気持ち悪さがあった。
まるで景色を逆方向にコントロールしているような感覚があった。
まぁ、プログラム的にはそう組まれているわけで区切られたモニターという四角い枠の中に表示されている画像をどこか没入せずに外から感じていたのかもしれない。

僕たちの主観は常に自分自身にあると信じているはずだ。
けれどなんでだろうか。
僕たちは足を動かして歩いているとき、自分自身が動いていると自覚できている。
決して足を動かすことで景色が動いているという認識にはならない。
全ての感覚は自分自身を中心としているはずなのにだ。
実際に人間は太陽が地球の周りを回っているとずっと信じていた。
天動説は地球という場所を中心にしかみれないから生まれたわけだ。
だとすれば自分を中心にした視点であってもおかしくないと思うのだけれど、どういうわけだか感覚として動いているのは自分なのだと認識することが出来る。

例えばクジラなんかはどうなのだろうか。
海中に浮かび、ひれを動かし肉体全体を動かしたとき。
自分が前に泳いでいるという感覚なのだろうか。
それとも世界を後ろに動かしているという感覚なのだろうか。
実際に起きていることは同じなのだけれどさ。
あくまでも認識という部分ではどっちなのだろう。
クジラぐらいの大きさになると世界を動かしているような感覚であってもおかしくないような気もするよ。

空間把握能力なのか、空間認識能力なのか、名前は知らない。
僕たちはどうやら最初から自分を俯瞰で観ることが出来るらしい。
あのモニターの中では景色が逆に動くだけだったけれど。
現実世界では景色は動かず、自分が動いているのだと理解できる。
アクションカメラの映像をみればどうしたってカメラの視点を意識するよりもモニターの中の動きを感じている。
まぁ、そうしなければ映像と実際の自分の視界との区別がなくなってしまうのだろうけれどさ。
五感全てが自分が動いているということを認識していく。
自分の視点と、ドラクエのマップのような俯瞰の視点を併せ持っている。
地動説を体感している。

前にも後ろにも、右にも左にも。
僕たち自身が動くことが出来て、それを認識できる。
それも何かを意識しているわけでもなく無意識にそうだとわかっている。
だからなんだと言われそうだけれど。
そのことをすごいことなんだよなぁと感じることから始まる。
目というセンサーの情報をどのように処理して映像としているのか詳しいことなんかわからないけれど。

僕たちが動いているのか。
僕たちは世界を動かしているのか。
前に進めば世界は後ろに流れていく。

自分が世界の全てではない証拠だ。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。