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日常的な敗北

200安打とか。50本塁打とか。
すげぇなぁってことになる。
そういう数を積み重ねることに人は感動をする。

良く考えればそこには小さな敗北が積み重なっている。
打席数だけでも5~600あるのだから。
300打席凡退をしたり、450打席ホームランを打っていない。
打席数だけでそういう数になる。
ということは球数だともっともっとになる。
1打席で3球までチャンスがあるのだ。
恐らくは7~900球は見逃したり空振りをしたり打ち損じている。

素晴らしい大記録のすぐそばに夥しい数の小さな敗北が折り重なっている。
そもそも3割、安打を打てば素晴らしいと言われる世界だ。
7割凡退するのが当たり前の世界だ。
僕たちが記憶に刻むのは勝利だけれど。
敗北を重ねることが当たり前なのだ。

打ちごろの球を見逃してしまった!
甘く入った球を打ち損じてしまった!
手も足も出ないまま空振りしてしまった!
そういう小さな敗北なんか気にも留めないと思う人もいるだろう。
でも実際は違うはずだ。
些細なミス、小さな敗北は目に見えないような小さな傷になる。
それ一つでは大したことなくても、続けば致命傷にだってなる。
慣れっこですからなんていうのは自覚症状の問題でしかない。
小さな傷は少しずつ少しずつ刻まれていく。残っていく。

記録を残すような偉大な選手はそんなことで傷つかないのだと思うだろう。
でもそうじゃないのだと僕は思っている。
むしろ凡人の何倍も悔しがって、怒って、落ち込んでいる。
本当なら全ての配球をホームランにしたいぐらいに思っている。
彼らがいちいち落ち込まないから凄いのだというのは少し違うはずだ。
傷つきながら、切り替える能力が凄いのだ。
だから傷は傷としてそのまま残っているのではないだろうか。
傷があるから次に影響を及ぼすという事象を拒絶しているだけではないだろうか。
凡人であるほどミスは仕方ないで済ませてしまうのだと思うよ。

たくさんの悔しい思いであるとかは忘れ去られていく。
誰かが気に留めることはなく、自分の中にだけ澱のように積もっていく。
成功することで忘れたような気がするけれど。
誰かの称賛の声にフラッシュバックのように小さな敗北を思い出すこともある。

勝利とは非日常で。
敗北とは日常なのだろう。
あがいてあがいて。
水の底から顔を出す。
最後に笑うのだともがきながら。

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