多様な学びと社会的包摂

1. はじめに

2016年に公布された「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」(以下、教育機会確保法)において、不登校の子どもを含めた普通教育に相当する教育を十分に受けていない者に対して、学校以外の場での学びを認めていくことが支援の方向性として示されている。

2010年代以降の日本の不登校支援の議論は、学校復帰にどれくらいこだわるか、あるいはそれ以外の育ちのあり方をどれくらい認めるのかという対立軸が大きな割合を占めてきたように思う。学校関係者は前者の立場、不登校の親の会やフリースクール関係者は後者の立場を取ることが多い。

今回は多様な学びという論点を中心に不登校の議論を基本的なところから整理し、皆さんと一緒に社会問題としての不登校について考えていきたい。

2. 不登校とは?

まず、不登校とは何であろうか?私は不登校とは社会的排除であり、不登校支援の目標は社会的包摂と捉えている。教育を受ける権利は全ての子どもにあるが、それを公的に保障できていない状態だからだ。また、不登校に関連する要因として、発達障害(ASD、ADHD)、知的障害、成績、家庭の収入、親の学歴、ひとり親家庭など様々なものが指摘されている(子どもの発達科学研究所、子どもみんなプロジェクト News Letter 第1号)。

つまり不登校は社会的に不利な立場に置かれがちな子どもや家庭において起こりやすい。教育を受ける権利を保障されず、とりわけ不利な立場に置かれがちな子どもで学校を離れる子どもが多くいる。これを社会的排除と表現する以上に適切な言葉を私は知らない。

園山大祐は、「学校を離れる若者たち―ヨーロッパの教育政策にみる早期離学と進路保障」においてこのように書いている。

”学校から離れる不登校や長期欠席、中途退学の要因には、家庭背景による経済的要因(貧困、ヤングケアラー)、社会的要因(非行・ギャング、外国人・移民・難民、障害、性的マイノリティ、親・きょうだいの学歴)、あるいは心理的要因(家庭内暴力、育児放棄、虐待、ひきこもり)、さらには教育的要因(校内暴力、いじめ、あるいは学習困難な若者への対応)があり、それらへの対応が社会格差との闘いとして喫緊の課題となっている。ヨーロッパでは、20世紀末より貧困と社会的排除との闘いとして若者の孤立、社会的紐帯の喪失など長期不安定雇用・失業・ニートといった社会情勢に応じた教育、福祉、労働問題が政策の重要課題とされている。”
(園山大祐、学校を離れる若者たち―ヨーロッパの教育政策にみる早期離学と進路保障 P1)

一方、このような要因分析が、不登校の子どもや家庭への非難につながらないよう気をつける必要がある。子どもや家庭の責任に帰することは、さらに当事者を追い込み、公的な責任を問い直して社会的包摂を目指していく営みから離れていく可能性がある。そのため、個人や家庭ではなく社会的な責任を問い直す意味を含む、「社会的排除」や「社会的包摂」という捉え方がより良い不登校の議論につながるのではないかと考えている。

3. 多様な子どもたちを受け止める学び

社会的包摂を目指す営みとして、教育の分野にインクルーシブ教育という概念がある。インクルーシブ教育とは一般に、障害のある人とない人が共に学ぶ教育のことをいう。1994年にユネスコとスペイン政府によって出され、インクルーシブ教育の潮流を作り出した「サラマンカ宣言」には以下のように書かれている。

”すべての子どもは、ユニークな特性、関心、能力および学習のニーズをもっており、教育システムはきわめて多様なこうした特性やニーズを考慮にいれて計画・立案され、教育計画が実施されなければならず”
(サラマンカ宣言、国立特別支援教育総合研究所 訳)

ここに書かれているインクルーシブ教育の対象は、全ての子どもである。なぜなら全ての子どもは多様であり、多様性を受け止める学びを目指していくことが、インクルーシブ教育への道のりだからである。

では、現状において教育は多様な子どもたちを受け止める学びになってきているのだろうか?特別支援学校と特別支援学級に行く子どもの人数を見るとこのようになっている。

(文部科学省、R5特別支援教育の充実について P5)
(文部科学省、R5特別支援教育の充実について P6)

”直近10年間で義務教育段階の児童生徒数は1割減少する一方で、特別支援教育を受ける児童生徒数は倍増。特に、特別支援学級の在籍者数(2.1倍)、通級による指導の利用者数(2.3倍)の増加が顕著”
(文部科学省、特別支援教育の充実について P3)

普通学校や普通級から離れる子どもが増えているということである。不登校の増加を加味するならば、いっそうそのような流れがあると言えるだろう。これは、要因を学校のみに帰することはできないとしても、状況として普通級が多様な子どもたちを受け止める場ではなくなってきていると言える。

児童精神科医の本田秀夫は、「学校の中の発達障害」においてこのように書いている。

”私は、発達障害の子や知的障害の子は特別な場での教育を利用し、支援を受けたほうがよいと思っています。
なぜかというと、それが子どもの「保険」になるからです。発達障害の子や知的障害の子は支援を受けたほうが、より安全に、そしてより安心して、学校に通えるようになる場合が多いです。”
(本田秀夫、学校の中の発達障害 P188)

私もまた支援者として、支援学校や支援級を勧めることがある。普通学校や普通級では辛い経験をし続けるような状況や保障できない学びが時にあるからだ。私はまずはミクロな観点で目の前の子どもにとって良い支援を考えたい。しかしその背景にあるマクロな構造を意識しないわけにはいかない。なぜこれほど多くの子どもが普通学校や普通級から離れざるを得ないのだろう?

さらに近年は不登校の増加を背景として、多様な学びの必要性が謳われている。不登校の子どもたちを民間の居場所が受け止めていくという議論である。公教育はますます遠心的になっている。

このように考えると、多様な子どもたちを受け止める学びと多様な学びは、表現は似ているが、方向性はまるで異なることが分かる。重要なことは、不登校において多様な学びという方向性は、社会的包摂につながるのかということである。

4. 多様な学びの包摂性

公教育は、いくつかの特徴において非常に包摂的なものである。

①全国各地にあり、ほぼ地域に関係なく通うことができる。
②公的な資金が多く使われており、家庭の経済状況に左右されにくい。
③教員養成や採用、学習指導要領や通知など、質を保ち向上していくための制度が作られている(その中身について議論はあったとしても)。

一方、民間のフリースクールの場合、①〜③いずれも満たすことができない。③は、その制度からの自由こそが民間の良さだと考えることもできる。しかし個々に良い取り組みがあったとしても、全体として見た場合に公的な質の保証がないまま子どもに関わる状況が、困難を抱えた子どもたちへの支援として適切とは言えないだろう。この3つを踏まえると、完全に民間のフリースクールが、不登校の子どもたちを広く包摂していく役割を担うことは難しい。それに対して、公教育は包摂的な特徴をいくつも有しており、普遍的な権利保障の場として優れている。

それでは、フリースクールが制度化されれば良いのだろうか?制度化されるならば、公的に質を保証するための仕組みが必要である(ここで言う質がどのような意味合いだとしても)。質の保証はそれ自体が重要であるし、質の保証によって説明責任が果たされ、制度を広げやすくなる。

ここで、学校設立の自由がある国として有名なオランダの教育監査を例にして質の保証について考えてみる。オランダでは、オランダ教育・文化・科学省の下に教育監査局があり、教育監査局に所属する教育監査官(インスペクター)が学校訪問を中心とした教育監査を行う。

”学校訪問でインスペクターは、授業観察に加え、校長や教員、保護者・生徒の代表との意見交換を経て、「(1)質の監理、(2)テスト、(3)教材提供、(4)時間、(5)教授・学習のプロセス、(6)学校の雰囲気、(7)生徒指導とガイダンス、(8)成果」の8分野において、評価基準ごとに定められた指標に基づいた4段階評価(自由記述を含む)を行う。その後、インスペクターは学校ごとに監査結果をまとめた監査報告書を作成するが、監査報告書はその内容について学校からのコメントを受け付けた後、教育監査局のウェブサイト上で公開されることになる。”
(吉田重和、オランダにおける「教育の質の維持」のメカニズム P150-151)

さらに、吉田重和がオルタナティブスクールの管理者(校長、副校長、教頭)に対して、監査をどう捉えているのかインタビューを行った結果が以下のように書かれている。

”まず前提として、オルタナティブスクールの管理職たちが、監査の正当性を認識している点が挙げられよう。すなわち彼らは、監査をアカウンタビリティを果たす手段として認識することで、監査が行われること自体を必要なこととして、積極的に受容しているのである。このような認識こそが、監査を「規制」ではなく「援助」だとする彼らの見解の基盤となっているのではないだろうか。”
(吉田重和、オランダにおける「教育の質の維持」のメカニズム P158)

オランダは一例にしか過ぎないが、海外のオルタナティブな学びの背後にある質の保証の仕組みは、多様な学びについて考えるために重要ではないだろうか。

5. 制度化の条件

民間のフリースクールが既存の学校の代替(不登校でなくても通える場)として制度化を目指すならば、学習は必須の条件であろう。学校は、学習を主たる活動として制度化されている。その過程で学習以外の大切なものも得るかもしれないが、主活動が何でも良いわけではない。学習が何らかの条件でなければ、学校の基準は曖昧になり、学習権の保障が難しくなっていく。

ここで注意する必要があるのは、学習を公教育の内側に入れるための条件にすることと、学習を何よりも重視することは異なるということである。それは入口のチケットであって、入場後にそれぞれの学校の状況やその子に応じて何を大切にし、どのように活動を展開するのかは、様々あり得るだろうし、あった方が良いだろう。

あるいは、学校の代替ではなく不登校支援の場として制度化を目指すことも考えられる。そうなると条件はまた変わってくるだろう。いずれにせよ、制度化のために考えることは多くある。

現状でも行政による多様な学びへの施策(連携や予算)が特定の地域で独自に行われていることはあるが、不登校の子どもたちを広く包摂していく制度には至っていない。

6. 教育機会確保法と民営化の難しさ

多様な学びの制度化を目指した教育機会確保法の形成過程においては、フリースクール・不登校関係者の間でも大きく意見が分かれた。横井敏郎はその時の議論をこのように書いている。

”同試案で特に問題とされた点は、「個別学習計画」と就学義務みなし規定、教育委員会による修了認定である。不登校の子どもが学校外でも教育機会が確保されるよう、保護者が就学困難な状況にある子どもの「個別学習計画」を市町村教育委員会に提出し認定を受けることができるとし(第12条)、認定を受けられれば就学義務を履行したと見なされるとした(第17条)。またその場合、義務教育の修了認定は市町村教育委員会がその子どもの学習状況を総合的に評価して行うとされた(第18条)。しかし、不登校の子どものうちフリースクール等に通う子どもの割合はわずかであり、家で休養している多くの子どもと親にとって「個別学習計画」は家庭への介入と望まぬ「教育支援」をもたらし、学校籍と教育委員会籍の二重化による差別も生まれると捉えられた。また義務教育の民営化・自由競争化が生じるとの批判も出された(登校拒否を考える会・佐倉2015、不登校・ひきこもりを考える当事者と親の会ネットワーク2015、池田2015、前島2015など)。”
(横井敏郎、教育機会確保法制定論議の構図 P3)

ここに書かれている懸念点には、私も納得するところが多い。特に制度設計を丁寧に行わなければ、社会的包摂から離れる形での「義務教育の民営化」が生じる可能性があると思っている。

民営化には、教育の運営をより民間に委ねることや学校選択の自由度を高めることなどがある。その結果、どのような変化が起こり得るのだろうか?実証研究においては、3つの評価軸がよく挙げられる。

①効果:子どもの学業成績など
②効率:学校運営の効率性
③平等・公平:教育機会やその便益は特定のグループではなく、公平に提供されているか

その上で、松塚ゆかりは「概説 教育経済学」にこのように書いている。

”学校選択制をめぐる賛成、反対派の意見はそれぞれ納得できる論理と内容をもっている。それゆえ、学校選択制の是非について確定的な結論は出ていない。一方で賛否両意見の数と同じくらい学校選択制の効果や意義を検証しようとする研究が存在する。特にチリでは1980年より、スウェーデンでは1992年より大掛かりにバウチャー制度を導入しており、これらの国では実証研究も蓄積されてきている。例えば、チリとスウェーデン両国を対象とした研究には Carnoy (1998)、チリの制度効果に関する研究は Lara, Mizala & Repetto (2011)、 McEwan (2001)、 McEwan & Carnoy (2000)、スウェーデンの効果検証は Böhlmark & Lindahl (2008)、 Hinnerich & Vlachos (2017) 等があり、これらのほぼすべてが前節で効果検討の観点とした、「教育効果」、「学校運営の効率化」、「教育機会の平等・公平性」のうち「教育の効果」と「学校運営の効率化」を網羅している。学校選択制とバウチャー制度に関する研究結果を総合的に見ると、肯定的な結果と否定的な結果がおそらく同じ位存在する。”
(松塚ゆかり、概説 教育経済学 P206)

また、教育分野において利益団体のロビー活動が盛んになってきているアメリカの状況について、畠山勝太は以下のように書いている。

”そして、これらの新しい財団とその設立者たちは、LAやNYといった大都市各地の教育委員会の選挙で、改革派の候補者に多額の献金をすることで、ローカルレベルでの教育民営化や市場メカニズムの活用も推進しています。また、新しい財団は、古い財団と異なり、本業での分野が同じこと、代表者の居住地が近いこと、同じ教育団体の理事を務めていることなど、アクター間で密な関係があるというのも特徴です。

この動きには二つの問題点があります。一つ目はアカウンタビリティの問題です。教育委員会は地元の住民に対して説明責任を負いますし、教員組合もその内部では一応民主主義的な手続きが取られています。これに対して、新しい財団は大富豪が誰に対しても説明責任を負うことなく、公教育へ大きな影響力を行使します。もう一つの問題が利益相反です。例えば、IT系の会社の社長や会長が財団を設立して、学校教育におけるICTの活用が進むように手助けをしたとして、導入されたICTの機材がその財団の代表の会社から調達されたとしたら、どうでしょうか?”
(畠山勝太、ビルゲイツやザッカーバーグは救世主なのか、それとも破壊者なのか?)

教育の民営化には、肯定的な結果と否定的な結果のいずれも可能性があり、説明責任や利益相反などの問題も生じかねない。非常に難しい制度設計が求められる。

不登校についてのこれまでの施策、不登校関係者の抵抗感、政治家の抵抗感いずれを見ても、社会的包摂につながる教育の民営化は困難に思える。

7. 公教育の相対化

一般論として言えば、学校に行く意味を子どもたちが感じていることは、不登校を減らす要因となるだろう。モチベーションが少ないよりは、多いほうが通いやすい。しかし、1980年代以降学校は活発に批判され、学校への信頼や学校に行く意味は低下してきたように思える。

”八〇年代以降くりひろげられた学校批判は、学校の聖性にとどめを刺しました。おとなたちが学校や教員へのバッシングをくりかえしていたら、学校をたいせつな場、教員をよき権威と感じるこころが子どもたちに育まれるはずがありませんよね。子どもたちを学校や勉学に向かわせるだいじな力を、だれよりもおとなたちが自分たちの手でこわしてきたといえないでしょうか。”
(滝川一廣、学校へ行く意味・休む意味 P346)

公教育の相対化をどう捉えるのかは、非常に難しい問題である。まず、公教育の相対化という側面のみでもって否定することはできない。もしそのような理由で否定されるならば、あらゆる学校への批判が否定されることになるからだ。

そして当然ながら学校への妥当な批判はあり得る。例えば2010年代後半から校則が盛んに批判されているが、妥当な内容が多く含まれているように思う。妥当な批判であるならば、それに対して公教育の関係者がどう呼応しているかが重要である。学校が実質的により良い場所になるきっかけにして欲しい。

また、公教育への圧力を下げることが子どもにとって助けになることもある。児童精神科医の齊藤万比古は「不登校の児童・思春期精神医学」においてこのように書いている。

”不登校の治療目標は、不登校という事態を悔やみ呪うのではなく、不登校を生きることで新たな自己・真の自己を確立することにある。性急に学校復帰だけを目指すのではなく、広い視野で子どもの自己との直面を支援していきたい。個々のケースに即したテーラーメイドな治療・援助法を築くには、背景疾患、不登校のどの段階にいるか、各下位分類のどれに属するか、家族機能の質、学校の特徴などのデリケートな評価が求められる。”
(齊藤万比古、不登校の児童・思春期精神医学 P28)

この場合の公教育の相対化は、現実的な支援方法である。子どもの状態を見極め、支援者や周りとの信頼関係を作り、ステップを踏んでいく。

このようにいくつかの留保があるとしても、公教育の相対化が学校に行く意味を低下させ、子どもたちが学校に行きにくくなる可能性があることは意識する必要がある。意味を感じるが学校に行けない辛さもあれば、意味を感じないまま学校に行く辛さもある。

公教育の相対化をどう扱うかは、それぞれの立場で、それぞれの専門性と倫理が問われている。公教育の関係者はそもそも学校に行かない権利より先に、学校に行く権利を保障する責任があり、そのためにできることがある。政治家やメディア関係者は、包摂的な社会に向けて議論を喚起する責任があり、そのためにできることがある。外部の支援者は、専門的見地から目の前の子どもを支える責任があり、そのためにできることがある。

8. 夜間中学の議論

1940年代末から、不就学・長期欠席の子どもたちを主な対象として夜間中学が開設されていった。夜間中学における議論は、現在の不登校を考える上で非常に示唆に富む。江口怜は「境界線の学校史」においてこのように書いている。少し長く引用させてもらいたい。

”当初文部省は夜間中学を認めない態度を示したが、その理由は、6-3 制義務教育の理念が崩れること、学校教育法で認められていないこと、労働基準法違反に通ずること、国や地方自治体の義務不履行の正当化になりかねないこと、生徒の健康を蝕む危険が高いこと、夜間だけでは各教科の十分な学習ができないこと、教員の負担が過重になること等であった(尾形・長田 1967: 58;江口 2018: 60)。「制度の境界」という観点から見ると、文部省は単線型で標準的な形式を持った義務教育制度を維持し、その内部に経済的格差を反映した境界線を出来る限り設けない方針をとったことになる。
これに対して、夜間中学の教師たちは、夜間中学は昼に働く生徒に対する義務教育の完全実施のために不可欠な存在であること、昼間学級に復帰可能なものは復帰させ、復帰不可能なものには昼間と同等の学力を授けること、適切な健康管理を行うこと等を論じてその正当性を主張した(東京都足立区立第四中学校第二部 1951)。とりわけ興味深いのは、文部省が制度体系の維持を優先するのに対して、「すべての人々に一人残らず」民主化のための教育の機会均等を実現するというより高次の理念に即して、膨大な不就学・長欠児が生み出される事実を直視して夜間中学の法制化と普及が必要だという主張がみられる点である(今北 1954)。ここには、夜間中学の存在を「あってはならない」とするだけでは、すべての人の教育を受ける権利を保障し得ていないという「あってはならない」事実を変えることはできず、この事態を解決するために夜間中学は「なくてはならない」のだという論理が含意されている。
このように自治体による積極的な夜間中学の開設の事実や夜間中学の教師たちの要求に押されるなかで、文部省は他省庁とともに53年末に夜間中学の全国調査を実施し、暫定的なものとしてこれを黙認しつつ法的には二部授業の規定を準用するという解釈を示すなどその態度をやや軟化させた(大多和 2012; 江口 2015a)。ここで義務教育の境界線は押し広げられたが、あくまで「暫定性」が強調されたように、拡張された線はいわば破線であった。この破線としての位置づけは夜間中学側からも主張されており、「二部学級を恒久的施設とする事ではなく二部学級そのものを不要とするような社会事情が一日も早く到来して欲しい」とも述べられている(広島市立二葉中学校第二部 1953: 1)。”
(江口怜、境界線の学校史 P57-58)

”とりわけ注目したいのは、教師たちが夜間中学を「あってはならないが、なくてはならないもの」と表現し、その矛盾を自覚的に引き受けつつ、その存在意義を再定義し続けてきた点である(塚原 1968)。”
(江口怜、境界線の学校史 P50)

興味深いのは、困難を抱えた目の前の子どもたちへの対応とそもそも目指すべき方向性とを分けて意識していることである。それが、「あってはならないが、なくてはならないもの」という言葉に象徴されている。

現在の不登校支援も、子どもたちの教育を受ける権利を保障できなかった結果という意味で、「あってはならないもの」である。一方、不登校の子どもはあまりに多く、目の前の子どもを支えるため「なくてはならないもの」という側面もあるかもしれない。

もし民間のフリースクールが既存の学校の代替として包摂的な形で制度化されるなら、やや話は違ってくるだろう。多様な学びこそがむしろ目指すべき方向性になるからだ。しかしそれは教育機会確保法で見られたように、非常に困難な方向性に思える。

そうであるならば、やはり現在の不登校支援は、「あってはならないもの」である。もちろん不登校がゼロになる日は来ないかもしれない。しかし公教育がより包摂的になっていくことで、その方向を目指すということである。

江口怜の「1970年代以降の夜間中学における学齢不登校児の受け入れ動向と論争に関する歴史的検討」において、夜間中学の関係者が幾度となく不登校のことを「(教育からの)切り捨て」と表現していることが興味深い。私は学校の先生や公的な支援機関の職員から不登校について同様の意味の表現を聞いたことがほとんどない。

もしかすると、「不登校という生き方もある」という主張が強くなるほど、学校は意味だけでなく、責任もなくしてきたのかもしれない。「あってはならない」ではなくて「あってもいい」という主張だからだ。

一方、不登校の子どもや保護者が、悩み抜いた末に「不登校という生き方もある」というアイデンティティを持つことに対して、私は苦しむ子どもに向き合う支援者として、どうしても共感してしまう。それは自分を守るための行動だからだ。

しかしそれでもなお、私は支援者としての専門性と倫理から、公教育の包摂性こそが目指すべき方向性だと公教育の関係者と政治家とメディア関係者に対して、訴え続ける必要があると思っている。そして現実的で包摂的な不登校支援について議論し続け、不登校の子どもがそれぞれのタイミングで社会的に包摂されることを目指していく。

9. おわりに

憲法には、全ての人が教育を受ける権利を持つと記されている。これは、学ぶ機会を公的に保障していくことには、普遍的な価値があると考えているということだ。その理想が実現できたことは、歴史上一度もなかっただろう。私達は理想と現実の狭間で悩み、自分なりの答えを見つけていく。

しかし理想を実現できたことがないという事実も、理想とは違うけれど自分なりの答えを見つけていく営みを支えることも、社会として理想を捨てる理由にはならない。

不登校を個人の問題とせず、私達の社会の問題として、不登校の予防や支援のための具体的な論点を一つ一つ吟味していきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?