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読書録「コンビニ人間」村田沙耶香作

 芥川賞受賞の帯で平積みされてた浦和パルコの紀伊國屋書店で購入。薄いのですぐ読めそうだし、「受賞作」というのを意識して読んだことが無いので買ってみました。

 小説なので、ネタバレに繋がるような記載には気をつけて感想を書きます。小説に限らず、私は内容に触れる事なく読書の感想を書くように決めているのですが。

 わりとしっかり読み込んで2時間くらいでした。作者の村田沙耶香さんの作品はこれが初めて。事前情報も入れずに読み始めて、1日で読み終えました。

 まず第一印象で「押し付けがましく無い作品」であると強く感じました。人はどうあるべきか、正しい選択とは、正しい生き方とは、充実した人生とは。そういった人間の命題に対して、一元的な模範解答などない。いや、「模範解答などない」という結論さえも押し付けがましいのではないか。そのような自然体の控えめな、それでも明確な意思を感じました。

 人間は根源的に理解できないものに対して畏怖を抱くようにできています。言葉遊びになってしまうかもしれませんが、「恐怖」ではなく「畏怖」です。

 コミュニティを形成するために、またコミュニティを安定的に維持するためには「他人が何をどう感じるか」という情報が不可欠です。そこに個人差は許容されますが、「理解不能」である事は一切許容されません。極端な差や真逆の方向性であったとしても、なぜそのような感じ方、考え方になったのか理解さえできれば極論も許容されます。

 しかし、僅かな差異であったとしてもその理由が分からなければ、その人間は周囲の畏怖の対象となります。単純な恐怖というのは、発生の原因が比較的明確な場合に発生するものであると考えます。なので、対象が「恐怖」であれば対策するなり諦めるなりの対処が可能です。一方で「畏怖」の場合は対処が容易ではありません。

 怖いだけでなく、「畏れ」つまり尊敬や本質的な共感、羨望を併せ持ちます。本能的に「自分もそうありたいがそれは不可能である」と感じてしまうからでしょう。

 では、自分が畏怖の対象となる事は稀少な事例なのでしょうか。自覚していないだけで、他の誰かから「理解不能」だと思われていないと言い切れますか。

 職場の同僚や配偶者、パートナーなどと言い争いになって「意味分からんわ」となる事はよくあると思います。いや、少なくとも私はほぼ毎日そんな事態に直面しています。

 互いに議論を尽くして、相互理解の努力を重ねて「確かにその立場であればその意見となるのは分かる。でも、今回はこういう状況だから別の案を落とし所にしないか?」などというケースもありますが、ごく稀に「いや、何でそうなるんだよ!!」となる事もあります。

 その時の感情が、実は恐怖や苛立ちなどではなく「畏怖」なのだと気がつく事があります。では、畏怖を感じたときにどう対処するべきか。

 その答えがこの作品の中にあります。どんな答えなのか。それを一言でここに書けるなら、小説なんていらねぇよ。そう言い切れる名作です。

 あらすじを一切書かない読書感想文。感想をお聞かせいただけたらうれしいです。あと、誰か書評の仕事させて下さい。

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