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新説ミスチル「Over」は死と別れの曲だった

 先日「Mr.ChildrenのOverは恋愛マニュアルだ」と主張しておきながら、急転直下でこのような説を世に出す事にいささかの躊躇は禁じえなかった。

 しかしながら、「Over」の歌詞を読み込むほどに別の解釈をするべきなのではないかという思いは大きくなり、何も語らないままにはいられなくなった。考えてみると、あの頃から私の解釈は違っていたのかもしれない。

 前置きが長くなったが、本題に入らせていただく。今回私がみなさんにお伝えしたいのは、この歌が「長年連れ添った妻の死」について描いているのではないかという説である。

 この前提に立って、歌詞をみていこう。

何も語らない君の瞳の奥に愛を探しても
言葉が足りない…そうぼやいてた君をふっと思い出す

 歌い出しの1行は、まさしく息を引き取った愛すべき妻の対する眼差しである。もう二度と語る事ができなくなってしまった妻の顔を見つめる夫の胸には、様々な妻との思い出が去来する。

 そして、意外な事に最初に思い出されたのが「あなたはいつも言葉が足りない」と事あるごとにたまに言われていたお小言だった。楽しい思い出や悲しい思い出ではなく、ちょっとした諍いの際に言われていたお小言が、なぜ最初だったのか。それはこの先を読む事で明らかになる。

今となれば
顔のわりに小さな胸や
少し鼻にかかるその声も
数え上げりゃ きりがないんだよ
愛してたのに
心変わりを責めても空しくて

 妻が急病で病院に運ばれた直前、夫婦は今までにない大きな喧嘩をしていた。きっかけは些細な事だったのに、たまたまお互いに虫の居所が悪かったのかエスカレートしていまい、今なくていい事まで言ってしまった。もちろん売り言葉に買い言葉だったのだが、ひどく罵り合ってしまった。

 小さな胸や鼻にかかる声に言及している事から、2人の喧嘩は「妻が夫の浮気を疑った」事が発端であると思われる。

 たまたま夫が持っていた写真に会社の若くて胸の大きい女性が親しげな感じで写っていたのだろう。時代背景的にも社内旅行が普通だっただろうから、夫の同僚が冗談で「不倫旅行みたいだな笑」的なノリで撮影したのかもしれない。

 おそらく、他にも怪しい要素を夫に感じていた妻が、その写真を見た事で夫に対して疑いの目を向けたのだ。夫は過去に浮気の前科があったから、余計に妻は不信感を大きく募らせた。

 つまり、ここで言われている「心変わり」というのほ、夫の過去の浮気を指しているのだ。妻をこれだけ愛していたのに、一瞬の気の迷いで心変わりをしてしまった。それをどれだけ悔いても、虚しさしか湧いてこないのだ。

“風邪が伝染るといけないから
キスはしないでおこう"って言ってた
考えてみるとあの頃から君の態度は違ってた

 ここで夫は気がつく。妻にはだいぶ前から病気の兆候があった事に。妻は体調が良くない日が続き、病院に行った。そして病名を知る。治る見込みのない重い病気だ。

 いつか夫にも伝えなければならない。残された時間も多くはない。しかしどうしても言い出せなかった。夫に伝えたら、病気の事が現実に迫ってきて耐えることができない気がしたからだ。それに、どうしても夫の浮気は許せない。夫や浮気相手への怒りが、少なからず病気の事を忘れさせてくれる。死への恐怖を和らげてくれている。

 そんな複雑な感情のなかで、“風邪が伝染るといけないからキスはしないでおこう"と言った妻の胸中はいかなるものだったのだろう。

 ちなみに、ここでの「風邪」は”妻から夫”ではなく”夫から妻”への感染について言っている。歌の流れから「キス」という柔らかい言葉にしているが、「浮気相手から変な病気もらってるかもしれないから、近寄らないで」と言っているのだ。

 不治の病を宣告された上に性病までうつされたらたまらない。担当医だって「え?このタイミングでクラミジアの治療します?」ってなってしまう。かといって、ただでさえ体がつらいのに別の負荷を追加されるのも避けたい。こんなにあからさまに嫌な顔をされてるのに「考えてみるとあのころから~」などとのんきな事を言っている夫に、妻はほとほと愛想を尽かしたことだろう。愛想が尽きるようなときほどShe So Cuteとはならないのだ。

いざとなれば 毎晩君が眠りにつく頃
あいも変わらず電話かけてやる

 これは、妻に夢の中でもいいからもう一度会いたいという暗喩である。「死後の世界で眠りにつく=現世に生きるものの夢の中に現れる」という死生観は、インド周辺の特定地域における古代宗教の名残である。もともと枕の語源はマクラット=マク(盾)ラット(死後の世界)というサンスクリット語が語源であり、寝ている間に夢の中で死後の世界に連れていかれないように、藁の中にお札(もしくは精霊の加護を得た木片などお守りになるもの)を詰めて頭の下に敷いていたものが発祥だ。

 マクラットが中国経由で日本に入るにあたって徐々にお守りを中に入れる風習はなくなっていったが、九州のある地域ではいまだに子供に新しい枕を買うと親が手を合わせてお祈りをする習慣が残っている。

なんて まるでその気はないけどわからなくなるよ

男らしさって一体 どんなことだろう?

 毎晩夢で逢いたいと言い、電話をかけるとさえ宣言しておきながら、即前言撤回である。つまり、自分も死んで妻の元へ行こうというのは気の迷いであって、そんなことは望んでいないのだ。しかし、一方でそうは思ってもやはり妻の元へ行ってしまおうという思いがしばしば胸をよぎる。

 「男らしさ=自分らしさ」であると解釈すれば、主人公が自分を見失って狼狽している様が容易に想像できる。

夕焼けに舞う雲
あんな風になれたならいいな
いつも考え過ぎて失敗してきたから Wow

 夕焼けとは、人生の終わりを示すメタファーである。朝日や夜明けが誕生を意味するように、夜の暗闇は死を表す。夜に向かっていく夕方というのは、現世と死後をつなぐ時間帯であり、日本では「もののけ」が住む世界だと言われています。

 夕方を表す「黄昏時(たそがれどき)」というのは「誰そ彼(たそかれ)」が語源であるというのはとても有名である。一般的な解釈としては、日が暮れて暗くなることで「あの人はだれ?」を分からなくなるからだとされている。しかし、夕暮れ時だったとしても知り合いなら見分けがつきそうなものではないか。

 正確な解釈としては「彼は何者だ?」、つまり、あれは人間なのか、人間以外のものなのかを尋ねる言葉なのだ。ちなみに、日本には人と同等の大きさで二本足で立つ生き物は歴史上存在しない。夕暮れ時に二本足で立っている者を見かけたときに、「あれは人なのか、人以外のもの=もののけではないのか」と警戒していたのだ。

 夕焼けに舞う雲というのは、現世とあの世を行ったり来たりできるもののけであり、そういったものになりたいと主人公は言っている。考えすぎて失敗したというのは、妻に対する態度や浮気のことでもあり、自分自身の存在をもののけにするための試行錯誤のことでもある。そう簡単にもののけになどなれない。しかし、考えすぎるほどの努力はしてきたのだ。

今となれば
嘘のつけない大きな声や
家事に向かない荒れた手のひらも
君を形成(つく)る全ての要素を 愛してたのに
心変わりを責めても君は戻らない

 自分を化け物にしてまでも会いに行きたいくらい妻を愛していた。だからここで改めて妻の好きな部分を挙げる。全ての要素というのは、浮気がばれた後の冷たい態度も含めてである。それさえも自分への愛情のあらわれであったと感じた夫は悲しみに暮れるしかない。

 どれだけ自分を責めても、君はもう生き返らないから。

いつか街で偶然出会っても
今以上に綺麗になってないで
たぶん僕は忘れてしまうだろう
その温もりを 愛しき人よ さよなら

 妻と現世で会うことはもうない。つまり、あの世での再会を言っている。「今以上に綺麗になってないで」というのは、死化粧のことである。病気などで亡くなると衰弱した顔になってしまうが、それは生前の元気だった頃のように再現するエンバーミングというものがある。アメリカなどでは一般的(火葬しないからかもしれないが)なサービスで、大きな産業として社会に定着していて、ご遺体を生前同様に綺麗にしてくれる。

 妻の死を認めたくない夫の最後の気持ちが絞り出されている部分である。そして、夫はいつか妻の体温を忘れてしまう日がくるのではないかと恐れている。いや、それは忘れたのではなく、悲しみを乗り越えれば妻は心の中でずっと生き続けるのだから、自分と一心同体になる。そうすれば温もりは心の中にあり続ける。掌で感じていた妻の温もりは、それを忘れて心の中の温もりとして灯り続けるのだ。ちなみに、作詞の桜井氏は掌という楽曲で「僕らは違った個体で だけどひとつになりたくて 暗闇で もがいて もがいている」と述べている。「Over」と同じ世界線の楽曲だとにらんでいる。

何も語らない君の瞳も いつか思い出となる
言葉にならない悲しみのトンネルを
さぁくぐり抜けよう

 これはもう、そのままの意味である。何も語れなくなった君の姿もいつか思い出となり、一緒に過ごした幸せだった日々を思い出しながら過ごせる日が来るだろう。そう思って言葉にできないくらいの悲しみを抱えて歩き出そうとしているのだ。抱えた悲しみは、どこかに置いてくるわけじゃない。背中でその重さを感じて歩くほど、悲しみは軽く暖かくなり、夫の心に入っていく。けっして悲しみは忘れるわけでも、ほかの誰かに押し付けるでもなく、自分の心の中にちょっとずつ移していくのだ。なにげなく、なんとなくである。

 この歌の歌詞を改めて眺めると、随所に死を意識させる言葉や表現がちりばめられている。そこには、悲しみとは忘れたり乗り越えたりするものではなく、時間をかけて心の中で暖かい思い出に消化しているものなのだというメッセージが込められていたのだ。

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