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【イム・チャンヨン】すでに終わった選手と見られていた韓国人クローザーは不屈の闘志で何度も這い上がり世界で戦いたいという夢を実現 神宮球場にジェームズ・ボンドの曲が流れるとファンが勝利を確信した助っ人

おはようございます。
日本で戦うために、海を渡ってきた
愛すべき助っ人たち。

今回は、イムチャンヨンを
取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=PeK1l5_LQL4

1976年、韓国で生まれたイムチャンヨンは
高校時代には4番打者も任され、のちに
メジャーリーガーとなるソジェウンや
キムビョンヒョンから本塁打を放つなど
投打で野球の才能を見せていました。

1995年、ヘテ・タイガースに投手として入団し
プロ生活をスタートさせた右腕は
中日に移籍したソンドンヨルの後を
継いで抑えに起用されると
1998年には最優秀救援投手のタイトルを
獲得するなど投手陣の柱となります。

サムスン・ライオンズに移籍後は
さらにギアを上げ
71試合で130イニング以上と投げまくり、
どんな場面でもマウンドに呼び出されるほど
登板過多気味だった事から
サムスン電子の携帯電話名からエニ・コールと
呼称されました。

シドニー五輪では銅メダルを獲得し
先発に転向すると、2002年シーズンで
17勝を挙げた右腕は、メジャー移籍を希望して
ポスティングシステムを利用しましたが
わずか50万ドルの入札金額に
球団側が難色を示した事から破談となったのです。

すると今度はFA権を行使して
日本に移籍先を求め、
東北楽天ゴールデンイーグルスや
福岡ソフトバンクホークスに自身の映像を
送ったものの契約には至りませんでした。

強い海外志向を封印して
サムスンに残留した2004年から再び抑えを
任されるようになると、登板過多から
来る疲労により肘を故障したほか
5000万円という高年俸や海外移籍を巡る
球団との対立から不本意なシーズンを送っていた
イムチャンヨンは、オ・スンファンという絶対的な
守護神を見つけたチームの中で
存在感を無くしていきます。

2007年シーズン終了後、
戦力外となったのをキッカケに
再び日本球界を目指した右腕に対して
「右肘にメスも入れているし、もう終わった選手」
と韓国国内では冷ややかな反応でしたが
ヤクルトスワローズは
年俸30万ドルの2年契約を提示、
身長182センチ、体重80キロの助っ人は
海を渡ってきたのでした。

「コントロールとスピードに自信はあったけど
それだけじゃ日本で通用しない、
変化球を磨かなければ」と
来日直後からスライダーとチェンジアップの精度を
高める事に集中すると
抑えを務める予定だった五十嵐が故障した事から
クローザーを
任されるようになります。

押本(おしもと)、松岡と勝利の方程式を確立した助っ人は
エディ・ギャラード以来となる
日本デビュー初年度からの30セーブを達成、
前評判を覆して燕の守護神になった翌2009年、
WBC韓国代表のクローザーに抜擢されました。

「ドジャースタジアム史上最も心に残る10回」と
地元紙に絶賛され、キューバのカストロ議長が
「想像できる限り最も緊迫した試合の一つ」と称賛した
決勝戦でイチローに2点適時打を打たれ
敗戦投手になると、韓国では敬遠のサインを無視して
独断で勝負を挑んだと非難されたのです。

真相はイチローと勝負したかった投手コーチが
監督が出した敬遠のサインを揉み消し
イムチャンヨンに
伝えなかったからだとしてコーチが謝罪する
事態になりましたが、イムチャンヨン自身は
「どういう形であれイチローを抑えられなかった
自分が悪い」と言い訳する事はありませんでした。

シーズン中は当時の球団記録となる
20試合連続無失点や、自己最速160キロを
計測するなど前年からの好調を維持、
「大魔神、佐々木を超える0点台の防御率も可能」
と報じられましたが、
7月に行われたオールスター戦に選出された際、
宿泊先のホテルで寝坊し
チャーター機を大幅に遅らせるという
失態を演じてからは調子を崩します。

それでも進出したクライマックスシリーズは
復調し、クローザーの役割を果たすと
3年目となる2010年はリリーフエースとして
来日以来最高の35セーブに防御率1.46を記録、
球界を代表するストッパーとなりました。

シーズンオフ、他球団やメジャー移籍の話も浮上するなど
読売にペタジーニ、グライシンガー、ラミレスと
次々に奪われていたヤクルトは警戒しましたが
最終的に他球団の提示額より少ない
2年総額7億5000万円の契約を受け入れて残留した助っ人は
「ヤクルトにとって最善を尽くしたオファーなのは
分かったから、その気持ちを裏切りたくなかった」と
その理由を語ったのです。

4年目に突入した2011年は日本通算100セーブを
達成しましたが、ヤクルト最終年となった2012年、
右肘のじん帯損傷により全治1年の
診断が下されると、わずか9試合の登板に終わり
自由契約が公示されました。

手術も成功し戦いの場をアメリカに求めた37歳は
シカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶと
2013年9月7日、憧れ続けたメジャーのマウンドに立ち
ヤクルト時代の同僚、青木と対戦しましたが
1年限りで解雇された事から帰国、
サムスン・ライオンズに復帰します。

故郷に戻った右腕は2年連続30セーブを
こえる活躍をみせましたが
マカオでの不法賭博容疑で略式起訴された事に起因して
球団から放出されるとキア・タイガースに移籍、
年俸3億ウォンすべてを野球界発展のために寄付して
臨んだ(のぞんだ)2016年、15セーブを挙げながらも
防御率4.37とかつての輝きを失っていきました。

翌2017年、春季キャンプで滞在していた沖縄で
無免許運転していたオートバイで接触事故を起こすなど
お騒がせ男のイメージが定着したクローザーは
次第に成績も低迷、2019年3月、静かに
ユニフォームを脱いだのです。

引退後、サングラス販売の事業を手がけていましたが
うまく行かず、知人女性から借りた2500万ウォンの一部を
返済しなかったとして詐欺容疑で書類送検されたほか、
所得税3億ウォンが未納だとして国税庁から
高額常習滞納者に名指しされるなど金銭トラブルが
ついて回った右腕は
普段は寡黙で優しい性格の持ち主でした。

躍動感あふれるサイドスローから放たれる
最速160キロの速球はシュート回転しながら
右打者の胸元をえぐり、抜群のコントロールで投げ込んでくる
キレキレのスライダーにチェンジアップという
武器も併せ持っていた助っ人は
日頃の性格とは裏腹に
強打者になればなるほどボールが凄みを増していく
ハートの強さだったのです。

韓国人ながら辛い食べ物が苦手で
日本の刺身に感動した右腕は
いかなるピンチにも動じることはなく、
勝利を手にした時でさえ、ほんの一瞬
笑顔を見せたあとは、いつものクールな表情に
戻るのでした。

「苦手な打者について聞いても決して答える事は
無かったし、強烈な負けず嫌いで
弱い部分を見せないようにしていたね」と周囲が
口を揃えるほど、プロとしてのプライド高き男は
「パワーは韓国、テクニックは日本かな。
分析力は日本のほうが緻密だったし
フルスイングをせずにカットして来るから
イヤだったな。ストライクゾーンも狭かったね。
常に自己管理はしっかりやっていたよ」と
思い出を語っています。

高津臣吾(しんご)という不世出(ふせいしゅつ)の
クローザーが抜けた穴を埋め、球団歴代2位の128セーブに
通算防御率2.09を叩き出した背番号12は
ジェームズ・ボンドのテーマ曲流れる神宮球場に
姿を現すと、ヒートアップした観客に
勝利が目前である事を実感させ、蛇直球(へびちょっきゅう)を
投げこんだ波乱万丈型絶対的守護神、イムチャンヨン。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、日本に衝撃を
与えてくれた最強の助っ人たちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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