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ルーツと生い立ち1。kimi編

こんにちわ。kimiです。
マガジンに生い立ちを追加してみました。
( Takamiちゃんに相談なしに )笑

お互いのルーツを初回に話しておきながら
なにかこのままだとムズムズするので追加。


私は大都会大阪市生まれ、大阪の緑の無い方だけど河はすぐ横の田舎育ち。
韓国籍で産まれました。
日本の保育園、小中学校、高校に進学しました。
保育園の頃、お誕生日会のお誕生日カードの「すきな食べ物」にキムチと書いて、先生が爆笑していたのを今でも覚えています。笑
持ち帰ると、父も母もやや苦笑いでウケていました。

父と母は、いわゆる朝鮮学校に小学校から通っていたので、日本の教育を受けていません。
なので、小学校高学年にもなると
そんな宿題わかれへんー!
と、教えてもらった事は一度もありません。

家の中では、父と母は私と姉に聞かれたく無い話は韓国語で話し(笑)単語単語で韓国語を使うので、私は大人になるまで
これ、韓国語やったんかい!
というワードが沢山あり
ルー大柴的に日本語に韓国語を単語だけ日常で交えていたのです。

なぜでしょう。
ありがたい事に、私が住んでいた市は
「差別をなくそう」をテーマに掲げていて
(何故かは知りません)
校歌にも、
世界の人たちと分かり合うために
という歌詞が含まれていたくらいです。

なので、私が在日韓国人であることを、お友達みんなが知っていました。
もちろん、他にも数名いました。
外国人、カッコいいー!!
なんて言われて育ってしまったのです。

中学校も、公立なので同じ市ですし、全く困ることもありませんでした。

高校も公立に進学しましたが、さすがに学区制だったので沢山の市から集まるお友達に、わざわざ公表する機会もなく、知ってる子は知っているようなくらいで過ごしました。

そして、デザインの専門学校へ進学。

ここで転機が訪れました。
毎日毎日、韓国朝鮮を差別する報道と本で楽しむ学友。
決して彼らも悪気はないのです。
私が在日コリアンだと言うことも知らない訳ですし、私だって母国とは言え、政治的には日本と朝鮮半島の問題には、さすがにその歳頃には過敏に反応していましたから。

ただ、傷つくしかなかったのです。

あたたかい市で育てて頂いたおかげで、
18歳で差別の壁にぶち当たりました。隠そう。
絶対誰にも言わないでおこう。

そう思って過ごしたせいで、
就職時に住民票を求められた際に困り果てました。

当時は、特別永住者 住証明書
だったんです。
最初の会社では、きちんと説明しました。
なぜなら、社員旅行で海外に行く会社だったので、社会保険に入ることを拒んだとしても、旅行の時にパスポートの色が違うからバレてしまうから。
自分の心配をよそに、
なんやねん!そんなもん他にもおるわな!
とあたたかく受け入れてもらえました。

ですが、年々悪化する日韓、日朝問題。

社会人二社目からは、
もう、絶対に正社員にはなりませんでした。

なぜ自営業や社長さんに在日韓国人の方々が多いのか、大人になってようやく理解したのです。

就職出来ないからです。
当然、私の父親も自営業でした。

そして、私も絶対いつか起業しようと。
自分で生きていける知識と技術を身につけようと心に決めていました。

これが、一番最初に書いた
私達の反逆精神。
産まれて来る時に、自分でルーツを選択出来ないけれど、その運命と共に生きていかなければいけないのです。

結婚する時にも、韓国人だからということで相手のご両親から色々な質問をされました。
違う血を混ぜたくないと。

こういう事なんだなと。
改めて、落ち込み、改めて実感しました。

私は、結婚の際に日本籍に帰化しました。
なので、正式には今は元韓国人です。

ヨン様の第一韓流ブーム。
そして今の第二の韓流ブーム。
だけど差別は無くならない。

差別は、永遠になくなりません。
私たちも、国籍を書類上で変えたところで
ルーツと流れる血を変える事は出来ません。

すごくセンシティブな内容かもしれません。


ですが、私はようやく最近
自分のルーツを恥ずかしがらず、
再度大切にして行こうと言う気持ちになれたので。

noteを始めたひとつのきっかけでもありますし。


肌が綺麗で良かった。
そう思ってルーツに感謝しています。笑

今日はこの辺にしておきます。
kimi(MIHAE)

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