スクリーンショット__45_

生きて、いたくても――Dec#37

「相坂珠実って名前はね、両親二人の苗字から来てるの」
 彼女も、壊れながら、動き始める。自分の事を壊した、僕を見詰めて。
 言ってしまった後悔が、心に重く圧し掛かる。だとしたら、言わないでいる後悔は、一体どれ程だったのだろう。正しい答え、正しいと信じ込む答え。
 進める未来は、一つしかない。
「結婚したら、父親の相坂って苗字は一家で決まっちゃうけど、この子は二人の子だから、二人の証を残そう、って。だからお母さんの苗字、偶見を字だけ変えて、珠実って名前にしたんだって聞いてる。だけど離婚して、あたしの名前から父親は排除されて、お母さん一色になった。偶見珠実。だからこの名前は、本当に大好き」
 彼女の過去は、話の上辺だけなら三分で類例を一ダースも探し出せそうな、実にありふれたものだった。職場から見限られ、見る間に荒れた父親による、散財や家庭内暴力などが主な原因。だけど、僕は知っている。言葉では甘く届いても、それが引き起こす限りない苦痛。いつしか母親だけでなく、偶見も巻き込まれていた。彼女が中学生の時分だと言うから、僕が水難から助けて次にこの高校で出会うまでの、僕が知らない期間に。
 離婚事由として正当なのは歴然としていて、成立までは順調だった。それで偶見と母親は、少し離れた地域に引っ越した。だから偶見は今、あの河川敷とは遠い所に居住している。学校の帰りに僕とは反対方面の電車に乗っていた事も、偶見とあの時の女の子とを線で繋ぐ事の障壁になっていた。
 但し離婚後もトラブルは絶えず、父親は逆恨みから頻繁な嫌がらせを続けた。母親の携帯電話への着信から始まり、そこから徐々に手法が陰湿になって、悪化した。
「警察とかにも相談したんだけどね……意外だった。どこから生まれて来たかも分からないストーカーとかじゃなくて、問題のあった離婚相手なのに、対応が一時的、って感じで。やってはいるんだけど、こっちからすればやってないのと同じだし、向こうとしては何かやってるって言える程度。あたしも消耗してたけど、やっぱりお母さんがね、限界だった。もう一、二歩で致命的なラインに行っちゃうって、確信があった」
 通り魔事件が一〇月。中学時代と併せて、凡そ三年半に渡って被害を受けていた事になる。離婚するまでの肉体的な苦痛も辛かったけれど、離婚した後の精神的苦痛は一層耐えがたいものだった、そう語る偶見の表情は、まるで今この瞬間にも同じ経験を与えられているかの様に歪み、強く眉を顰めていた。思い出すだけでも、宿怨の念は余りあるだけのものなのだ。黙り込み、暫く握り合わせていた手には、常夜灯一つでも分かるくらいに赤く指の跡が残っていた。
 父親は居所を変えなかったから、行動範囲やパターンの大体は把握していた。父親があの細道を利用する事も。実際、当夜の計画はそれを織り込んでいた筈だ。
 そして、偶見は実行した。僕に聞かせた予言をなぞって。
「よく今まで、捕まらずに済んでたね……変な事、言う様だけど」
「……計画的だよ。少しでも疑われない様に、刺すのは一回。何度もやると、怨恨の線とか女の線とか出て来るのかなって。傷の角度で身長が割れるって言うのも聞いた事あったから、振り被るみたいにして、ちょっとごまかした。……まあ正直、今ここに居られるのは不思議だけどね。流石に何回も、家に警察来たしさ」
「やっぱり、怪しまれてた?」
「そりゃあね。疑いの程度は分かんないけど、あたしたちのトラブルなんか、調べれば簡単に辿り着けるもん。あたしたちが訴えた時は、何もしなかった癖にさ。だからまあ、あたしだって別に通り魔みたいにしなくても、もっと自然に見せ掛ける方法だってあったと思うし、その方が疑われなかったとも思うけど」その目が、見た事もない冷気を帯びる。「これは『復讐』だったから」
「、……!」
「それで、どうしても、目に見えて『殺された』って状況が欲しかったの。自然に見える死に方じゃ、絶対駄目だった。そんな最期じゃ、許せなかった」
 偶見は「復讐」に、対等な交換を求めた。ただ単に終わらせたかっただけじゃない、相応の末路を用意したのだ。与えられた「負」に対しての、本来は正常な反応。だけど、最も危険な形態。倫理でも世間体でも何でもいいけれど、「負」を縛りつける鎖は幾つもあった筈だ。但し、そのどれもが大した効力を持っていなかった。視点を変えれば、偶実と母親が受けた仕打ちの重さも物語っている。復讐を踏みとどまれる域では、最早なかった。
 手段は確かに短絡的と言えるものなのかも知れない。だけど、短絡的に選んだ訳じゃない。彼女にとっては唯一の表現方法で、同時に優秀なトラブルシューターだった。
「分かってたよ。どんな理由があったって、許されない事なのはさ。でも、全部終わった時だった。……ああ、あたし、間違ったんだ、って。後悔とか罪の意識とか、正直そんなのは全くなくて、ただ、もう『戻れない』のだけは確かなんだって。だから何、って言われても答えられないけど、あたしの中ではそれが凄く大きくて、ずっと消えてくれない」
「……だとしても、それしかなかったんだね。いや、言い替えるよ。君は、それを選ぶ必要があった」
 ――復讐しよう。
 あの時の声が、耳に蘇る。
 死にたくない、殺してやりたい。彼女に引き出されて、並べ立てた思いの丈。既に間違った道を知っていたから、僕が自壊する前に導く事が出来たのだろう。そして僕が剣を手に取ろうとしたその瞬間に、そっと誘導して、ペンを渡す事が出来たのだろう。冗談じゃない。偶見にその正しさをもたらしたのは「負」の反動であって、その時にはもう、正しさを得た偶見は手遅れなのだ。
 事件の予知の時、彼女は呟いていた。「そう進むしかない未来だってある」と。自分の関わろうとする事件を、未来と称してわざわざ打ち明けた。それは、どんな思いからだったのだろう。誰にも見えないSOSを演じて、それでもそこに僅かな希望を抱いていたのか。何も知らない僕は、偶見に違う未来を諦めさせた。
 彼女にとって、もっといい正解があったかどうかは分からない。「復讐」以上の未来が。それに、今となっては絶対的な過去で、それはどうしても変えられない。……そう、変えられるとするなら。
 今度は僕が、導く役目を負ってもいい。だけど、彼女も答えを知っている筈だ。
 だから僕は、敢えて。
「……最初に言ったけど、偶見。僕は別に、この件に関して何かを考えてる訳ではないんだ。僕が自ら知らせなくても……きっと君は、いずれ捕まるんだろうと思う。それでも、何事もなく二箇月も経ってるんだから、そうじゃない可能性だってある。ただ僕は、いずれにしたって今まで通りに、偶見珠実と言う人物に今回の新しいファイルを追加して、そのままの君を受け入れるだけだ。口外する気もなければ、かと言って、君の罪に目を瞑ったりもしない」
「……そんな言い方されちゃうと、却って辛い部分もあるけどさ。扱いが甘過ぎるんじゃない? 駄目だよ、そんなの。まあ、そこも宮下君らしさかな」薄く微笑む。その目にある光が、深度を増して、小さく揺れる。「出頭するよ、あたし」
「最初から、そうする予定だったんじゃない? 本当は、最初から」
「まあね。でもさ、宮下君の側には、最後まで居たかったから。一つの命を奪ったあたしの目の前に、一つの命を救うチャンスもあった。これがせめてもの巡り合わせだとしたら、負うべき役目なんだろうなぁってさ。あたしはもう戻れない代わりに、戻れなくなるまでの手順を知った。これから来る誰かの為には、なれる筈だったから」
「――ねえ、偶見」
 君のメッセイジは、いつも人の為にあった。「戻る必要なんて、ないんじゃないかな」
「……。何? それ。どう言う意味?」
「君が今『どこ』に居るのかも、君が『戻りたい場所』も、僕には分からない。と言うより、多分、君にしか。でも、それは偶見だけの事じゃない。誰もが未来へと向かっていて、そうでない時も、未来は僕たちの方へ向かって来る。元の場所になんて、そもそも戻れなくて当たり前なんだ」
 君はもっと、自分の声を聞いてあげるべきなんだ。
「知ってる筈だよ、僕がこんな説明をしなくても、本当は。だってこれは、今まで僕が貰った言葉を、そのまま返してるだけなんだから」
 君はもっと、
「――進めるよ」
 自分を愛してもいいと思うんだ。
「……進、む……? 今のまま、こんなあたしのままで……?」
「今はいいんだ、そのままで。未来は、変えられるんだから」
「進めるの、かな……、あたし、このまま進んで、いいのかな」
「現に、君は進もうとしてる。一つのけじめをつけようとしてる。君の選択を疑わないで。君の探す道を信じて。そうすれば、君はどこへだって行けるから。僕は言い切るよ。君への『信頼』として」ずっと近くで見ていたんだ。どんな時だって、偶見の瞳は真っすぐで――そんなの、訝る方が難しい。「進めるよ」
 ――その答えが、君の零した涙だとしたら。
 僕は少しでも、恩返しが出来たと思っていいのだろう。

「一人で、大丈夫?」
「大丈夫だよー、別に。今は帰るだけだもん」
 分かれ道。お互い、次へと向かうホームは違う。
「でも、ここで暫く、さよならかな。……元気でね? 宮下君」
「偶見こそ、元気で」
「気遣ってくれてるとこ悪いけど、あたしは問題ないから。心配しないで」
 まるで風の声でも聞くかの様に、偶見はそっと双眸を閉じる。
「ちゃんと整理をつけて、あたしは戻って来る。そこからぜーんぶ取り返すんだ。どれだけ辛くたってさ、時間とか夢とか、友達も、全部。その全部が、『現在』と同じじゃなくても、それでも取り返すって言えるだけ、掻き集めてみせる」
「自分の探す道を信じて……とは言ったけど、随分欲張りだね」
「欲張りって言うか、事実だからね――」そして、光に満ちた目を開く。「――もしかして、話してなかったっけ? ね、これ、人には内緒だよ」
 この瞬間、何かを得たみたいに。

「あたし、『視える』んだよね。未来が」


 ←第三六話  第三八話(エピローグ)→