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生きて、いたくても――Epilogue#38(完)

 自首とか出頭とかって、世間のフィルターじゃ簡単に篩い落とされちゃう情報だと思う。印象的には「捕まった」って言う、大きな所に統合されて記憶に残る。でも、こんなに怖いんだよ。手は震えるし足は竦むし、ただ寒いだけって事にしといて、今すぐ家に帰れたら。リヴィングの炬燵もストーヴも惚けた顔で、あたしの体を温めてくれる。だって、知らないもんね。あたしのした事なんて。
 マリオネットの糸が全て切られる直前の、最後の夜だった。
 決定的な瞬間を自分で見た訳じゃないから、何が引き金なのかは分かんない。言い争い、暴力、嫌がらせ。突然鷲掴みにされた何本もの糸を纏めて断たれたのか、たった一本、限界まで擦り減った糸がそこまで達したのか。お母さんは結末を迎えた。皮肉にも、失った全ての糸の代わりに、一本のロープに吊られて。「目に視えていた」最悪の事態が現実になる前に、あたしは原因を取り除いた。
 数は少ないけど光の強い街灯。ナイフを握り込む手に感じた硬さ。場違いに考えてたスニーカーの語源。振り被った時の風、命を抜き取った音。思い返せば、余す所なく記憶にある。
 一瞬だった。一瞬だったし、簡単だった。あんまりにあっさりしてて、手応えなんて全然なくて。人の命を奪うのがこんなにも呆気ない、その事が一番怖かった。
 家に着くと、電気も点けないでベッドに寝転がった。部屋は――静かだった。耐え切れないくらいに。
 淡いパステル・ピンクを基調にしたチェック柄のカーテン、ウッド・シェルフの三段目に座るお土産のぬいぐるみ、お気に入りのヘッドフォン、部屋の空気。今までは何の属性も持たないで、ただ自分が生まれた理由を全うしてただけだったのに、その夜だけは、どれもがあたしから遠ざかろうとした。幾ら見回しても、あなたの味方はしないって主張だけがあった。一度でも離したら逃げてしまいそうな布団を、強く抱き締めて目を瞑った。
 だけどそこを越えると、日常の最中に事件がふっと頭を過っても、意外と何でもなかった。覚え立ての点字みたいに、ただ表面をなぞるだけなら。一個ずつ詳細に読み込んで、中身に触れようとしなければ。だからあたしはいつも通りに過ごした。全然、難しくはなかった。誰もあたしに違和感を持たなかったと思うし、そもそも、あたしの父親が通り魔に遭ったなんて事も、皆知らなかったと思う。
 誰にも見えない所で、あたしは確実に道を逸れた。でも、あたしは進み続けた。二つの道は平行で、戻れなくても、皆とは隣に居られたから。出頭する気だって、本当はなかった。可能性を、自ら捨てる様な真似に思えて。最低な意味合いの「可能性」。寧ろあたしの方が、最後までずっと弱いままだったな。
 宮下君が居たから、あたしも自分を変えられたんだ。
 宮下君の推理は、前提に大きな間違いを抱えてた。単純に、過去視の結果をあたしが思わず主観から話して、それを宮下君が取り違えただけの齟齬。未来視なんてない、そんな誤認が何故か偶然にもぴったり嵌まって、宮下君のめちゃくちゃな数式は、正答を導いてみせた。結果は同じ、完璧に真実。そう言う運命、未来なんだと思って、だからあたしは素直に受け入れて頷いた。
 風邪で休むって言った時、あれだけなら一〇日も休む程の反動はなかった。口実が出来たから、あたしは無理を重ねて、更に遠くの未来を視た。美術部と練り歩く街、クリスマスのイルミネイション、夜の公園。それが大きな未来だとしたら、結果的には少なくとも一二月くらいまでは捕まらないのが分かって、ほっとした。ずっと、不安だったから。でも、あの映像があんな未来に繋がるなんて、思いもしなかったな。
 時間視を酷使した反動はその後も続いて、暫くあたしは不能になった。一箇月半、くらいかな。科学館で言った、未来を視なくなった理由は完全に嘘で、それがずっと後ろめたい。宮下君、ピュアだからなぁ。いきなり訊かれて、咄嗟にでっち上げたけど……それでも、気持ち的には本当なんだよね。言い訳かな。でも、だからそう言う意味じゃ、時間視なんて能力、指摘されたままで、宮下君の前ではない事にしてもよかった。
 けどね、この能力が本当に存在しなかったら、未来はきっと最悪だった。
 確かにあったんだよ、宮下君。君が死んじゃう世界は。
 裏庭の花壇を世話してる人を、あたしは自分と校務員さん以外知らない。元々は園芸部が管理してたらしいけど、二年前に潰れちゃったって聞いた。あたしは単純に趣味だし、趣味って言ってもガーデニングとかじゃなくて、花を見たり愛でたりするのが好きなだけ。でも、そんなあたしに、よくお話しする様になった校務員さんは昼の世話を任せてくれた。
 映像の中だから、音は聞こえない。だけど振り返った先には、さっきまで居なかった筈の男の子が、不自然な体勢で地面に伏せってた。明らかに駄目って分かるくらいで、それこそ投げ捨てられたマリオネットみたいだった。
 宮下君がああ言う以上は、やっぱり事故なんだと思う。でもあたしは自殺だと思って、放っとけなかった。助けよう、じゃ傲慢かも知れないけど、あたしに出来るなら何か変えよう、って。それが偶然にも、本当に偶然にもあたしを昔助けてくれた人だったから、それは尚更。
 どことなく既視感はあったけど、そんなドラマティックな記憶と結びつくなんて予想もしなかった。屋上で過去を視た時、吃驚して、ちょっとの間喋るのを忘れたっけ。
 あの時の宮下君、凄く格好よかった。自分でも不思議なくらい、はっきり覚えてる。ロボットみたいな泳ぎ方も、泥の色に染まっちゃった白いジャケットも、前しか見てないがむしゃらさも。強い人なんだ、って思って、今の姿を知った時は信じられなかった。きっと小さな間違いが噛み合い過ぎただけ、この人は自分を変えられる。寧ろあたしは、そんな希望を持った。違う未来があるんだよって、それを視せてあげたかった。
 助けられて、助けて……でも最後にはまた、助けられちゃったな。
 ねえ、宮下君。宮下君はあたしの事、待っててくれる?
 それもちゃんと、約束しとけばよかったかな。
 お母さんに、全部話した。最初は何が何だか分からないって顔をして、分からないまま泣いて、怒って、最後には全部分かった上で、泣いて、怒って、抱き締めてくれた。出頭するって言ったら、ついて行くからって。けど、それは断った。自分を、未来を変える一歩は、自分で踏み出したかった。踏み出さなきゃいけなかった。その大切さは、あたしが一番知ってる。そして、それが出来たら、少なくともあたしだけは、あたしを許してあげられそうだったから。
 待ってて、って、それだけを言った。
 家を出る時、リヴにも同じ事を言ったけど、小屋から出ても来なかった。起きてる癖に。薄情者。……まあ、リヴは元々、待つの得意だもんね。吃驚したよ。こっちは心配で、退院してからすぐ駆けつけたのに、平気な顔してそこに居るんだもん。段ボールの家だけ、なくなってたけどさ。お母さんも遂に呆れ返ったのか、やっと飼うのを許してくれたんだよね。
 ごめんね、あたしは暫く世話出来なくなっちゃうけど。自分勝手だけど。……でも、待ってて。
 皆に言う機会は、多分ないな。いきなり知らされる事になって、これってとんでもない裏切りだよね。……ごめん、でもきっと、その間に揺らいじゃう。まだ弱いんだ、本当にごめんね。
 何で宮下君には、言えなかったんだろう。チャンスはあった。でも、ちょっと照れくさいな。
 
 手足の震えは、いつの間にか治まってた。ちゃんと、行かなくちゃ。
 今、未来は正しい方向に進んでる。それぞれの正しい方向に。
 あたしは居なくなっちゃうけど、それでも、宮下君なら大丈夫だよね。
 ねえ、一個、あたしと約束してくれる? あたしは笑って、そう言った。
 今更そんな約束、必要ないから安心して。そう言って、宮下君は笑った。
 でも、それを新しい魔法の呪文にするよ、とも。魔法の呪文。意味は教えてくれなかったけど、きっと大切な言葉になる。だから最後に、指切りをした。小指と小指に、約束の糸を結ぶみたいに。
 
 生きて、
 
 痛くても。

     x x x

 コバルト・ブルーの街。静かな空気に、濁った気配は少しもない。
 親愛なるクソ親父。あんたがこの世から居なくなった事は、今だって間違いだなんて思ってない。でもそうする為に、間違いの中を通らなきゃいけなかった。あたしは償うよ。ちゃんと償う。……あんたになんかじゃ、ないけどね。
 あたしにも、超えなきゃいけない夜明けが来た。
 これからどうなるのかなんて、本当は誰にも分からない。あたしはそれが視えるだけ。本当は誰にも分からない未来を、少し覗き見出来るだけ。
 自分の望んだ職に就く、重い病気を宣告される、何もかも捨てて旅に出る。予想もし得ない出来事なんて、これから先には幾らでもある。ずっと遠くに引っ越して、ギャンブルで莫大なお金を手にして、大好きなのに別れたりして。だけど皆、どんな時でも何かを選び、そして何かに選ばれる。
 世界は生きものだ。こっちが悩んで立ち止まっても、待ってはくれない。
 自分の答えが、気持ちが、未来が、手の届かない所へ逃げちゃう前に。
 行って来るね。この道を信じて。
 進め、に交代する信号。あたしの為だけの、青い光。
 
 ――光。あたしの踏み出す先には、小さくても、光がある。
 さあ。
 また一つ、目の前の未来を今にしよう。


(生きて、いたくても 了)

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