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生きて、いたくても――Dec#35

「お待たせ、宮下君」
 時刻表の列に並ぶ数字が少なくなったこんな夜遅くの駅で、偶見と待ち合わせるのは不思議な感覚だった。
 天体観測、それも冬期となると、充分に過ぎるくらいの防備は必須だ。偶見はチェスター・コートにスヌードを巻いて、下はスエード素材のショート・ブーツとスキニー・パンツから、上はニットのキャスケットで耳を覆うまでだった。後々、帽子のつばが観測を阻害する事に気づくだろうけれど、まあ、今は構わない。何より新鮮な彼女を認めた。僕は精一杯のブルゾン以外拘らず、その下に適当な三枚を着重ねた。
 当然、彼女の帰る電車は始発以降になる。観測を四時まで続けたとしても、一時間は先だ。勿論僕もそれまではつき合う心算だけれど、帰宅までの時間には違いがあるし、電車に乗って帰る、たったそれだけの事が非常に面倒だと思う時もある。これが負担を掛けると言った箇所だ。多分彼女は「いいよ、その日はサボる。帰って寝る」を有言実行するだろう。それも無駄に一日休ませてしまう訳だから、あまり意味合いは変わらない。
「それじゃ、行こうか」
「うん。ごめんね、色々用意して貰って」
 荷物は、少し嵩張った。水筒やカイロ、レジャー・シートに、物置で忘れられていた寝袋。大荷物の用意は僕担当だ。家にあったものだし、偶見に持参させるとそれも一苦労になってしまう。僕だったら、こうして自転車に積んで押すだけなのだから。
 駅からは、徒歩だと三〇分近くを要する。ロータリーを出て直進し、すぐにある産業通りを右折して、暫く行った先で交差するもう一つの大通りを右折。経路は単純で、道程が長い。自転車の後部に乗せてあげられたらいい――そのシチュエイションには、少しの憧れもある――のだけれど、今の荷重に偶見まで加えて走るのは、僕には無理そうで、歯痒い思いだった。
「宮下君、こんな時間に外で何かした事ってある?」
「あんまり。勉強してる時に、小腹が空いたり、気分転換にって買いものに行くくらい」
「あー、成る程ね。あたしもあんまりないんだよね。友達の家でお泊りとかは、何回かしてるんだけど。外で過ごしたりはないなぁ」
「高校生だからね、色々と制約はあるよ」
 母親と二人で暮らしている偶見は、当初難色を示されたものの、何とか説き伏せて承諾を得た。母子家庭の愛娘が、夜中を屋外で過ごした挙句の朝帰りだ。憂慮するのも無理はない。一方僕の両親と言えば、心配は当然したけれど、意外とすんなり聞き入れてくれた。父に至っては寧ろ、女の子と天体観測に行く事を、どこか喜んでいた節がある。通学しているとは言え謹慎中の身なのに、広量な対応だ。
「……そうだ、偶見、今更なんだけど」
「んー、何?」
「偶見ってさ――」こうして確認する事、そして知るのにもあまりに今更だ。「――、一年生なの?」
「えっ? うん、そうだよ? あれ、知らなかったの?」
 携帯電話の没収は、この日の為に連絡が取れない事が問題だった。手紙でやり取りを図ろうと思ったのに、家でこっそり書いて来た手紙を靴箱に投函しようと玄関でさり気なく見回しても、偶見の名前が見当たらない。考えてみれば、学級を気にする契機がなかった。普段なら携帯もあるし、昼休みには必ず会える。これまで問題もない所為で、尚更だった。
 朝の早い時間で人の姿はなかったから、もっと大胆に探索してみたけれど、結果に変動はなかった。そこで今度は監督の先生に、この本を偶見に返して欲しい、連絡が取れなくて困っていると思う、と家にあった適当で適切な小説を渡して伝えると、「偶見って、一年のか?」と返されて、初めて知ったのだ。
「……、そうなんだ。全然知らなかった、勝手に、同学年かと」
「うわー、ちょっとショック。あたしの事全然知らないんだね……、あ、小説持って来たよ。ただの伝書鳩かと思ってたけど、読んだら結構面白かった」
 分かるかは不安だったけれど、小説のカヴァー下に手紙を貼りつけてあった。いきなり覚えのない本を返された、と言う違和感を唯一のヒントに彼女はそれを受け取り、結果的には何とか一方的な疎通を済ませられたらしかった。場所は河川敷、時間は深夜。元々決まっていた事は多いから、どうせ最寄り駅に終電で来るだろうとは思っていたけれど、明確にしておいて損はない。とは言え、賭けにも違いない。
 片側二車線の道路。通る車の一つ一つが悪戯の様に、僕たちを照らしては背中の方へ逃げて行く。寒夜に、三日月が冴えていた。この月齢も、観測条件として絶好な理由の内だ。今はまだ周囲の明かりや建物で、星は見えにくい。
 偶見が、僕の指示もなく的確に道を曲がる。自転車を押している僕に並んで歩くのは邪魔になるからと、彼女は前を歩いていた。
「偶見、道分かるの?」
「ん? ああうん、調べて来たし。乗り換え案内とかと一緒に。気合い入ってるから」
「気合い、入れる様なものかな。言ってしまえば、寝そべってるだけなんだし」
「ドライだぞー。願い事だって色々考えて来たんだよ、あたし。リスト書いて。……あ、文字見えないかな。宮下君は何か考えて来た?」
「うん、それなりにはね。言わないけど」
「えー、何でよケチー」
 僕はと言えば、角倉に対して考える筈だった次のステップが思いの外早々に終了してしまって、その成功を願うと言う項目がなくなったから、一から新たに考えていた。
 きっと、願いと欲望は、本当は似て非なるものなのだろう。
 願い候補を精査している内に、そもそも「願い」とは何かと言う哲学的な境地に漂着してしまった僕は、全てを一旦白紙にして、もっと純粋に、叶って欲しいと思う事だけを、色んなものと一緒に自転車の前かごに積んで来た。比べれば、小さな荷物だった。

 ポイントに着くと、寝袋を一セット渡す。シートを広げ、体を半分斜面に投げ出す形で仰向けになってみる。周囲の光源も邪魔にならない距離。良好だ。場所が決定して、寝袋を収納袋から取り出した。零時には二分前。順調に運んでいる。
「うわー、この辺真っ暗。自転車通ったら気づかれないで頭轢かれそう」
「……どうだろうね。時間も時間だし、人通りは多くないと思うけど」
 二人して寝転がる。流星群観測と言う多分そこまでメジャーでもないイヴェントを、趣味ですらない思いつきから、有名なスポットでもなく妥協した様な近隣の、冷えるのが分かり切った水辺で、それを平日の深夜に敢行する酔狂者……など、まあ居ないだろう。
 ポケットで、セットしておいた単調なアラームが鳴る。午前零時。観測が始まった。
 道具は何も持っていない。輻射点と呼ばれる、流星群の発生地点だけ認識していればいいからだ。それはふたご座を構成する星の一つ、カストルの近くにあって、ふたご座はオリオン座を目印に判別した。輻射点を覚えておくのは、関係のない他の流星と選り分ける為。流星は肉眼で視認出来るから、双眼鏡なんかは却って見る範囲を狭めてしまう。
 無関係な流星には他に二、三の違いがあって、それは偶見も予習して来ていたから、説明は不要だった。観測に専心する。最後に必要なのは、辛抱だ。
 一五分程経ってまだ成果のない僕たちの頭の上を、男性がジョギングで通り過ぎて行った。互いに疚しい事をしている訳ではないけれど、怪訝そうに一瞥し合う。
「こんな時間にこんな暗い所走ってる。ストイックだー」
「そうだね、何でわざわざ、――あっ」
 隣の偶見も同時に、声を上げた。
 僕たちは今確実に、夜空を走る光を見た。その星は、抓み上げた一粒のビー玉をそっと滑り台の上に置いたみたいに、楽しげな仕草で消えて行った。
 観測は初めての経験で、一五分の間、「流れた気がする」を何回か繰り返した。どちらかが主張してどちらかが疑りそれで終わるだけだった曖昧な発見を、判断のつかないまま一応カウントしていたけれど、違う。流れた時は、はっきりと分かる。
「……見た?」
「見た見た見た。そんでもって来た見た勝ったって感じ。うわー。でも、今のってさ」
「うん、ふたご座流星群じゃなかった。ただの流れ星」
 輻射点による判定。だけど僕は、却って驚いていた。見えても順当だと思える流星群に属さない、無関係の煌めき。ありふれた奇跡を示して、孤高の星はすぐに旅立った。
 初弾は寧ろ、引き金に過ぎなかった。それから立て続けに、今度はしっかりと輻射点から吐き出された星が、空の四辺に散らばって行った。零時から一時までの間に五つの流星群と無関係な流星一つを観測して、僕たちはそれを目に映す度、確立された法則の様に「あっ」と声を出す。流れ星に願い事なんて、到底無理だ。消えるまでの早さは問題じゃない。勿論それもあるけれど、前提として僕たちの随意の反応は、不随意の反射に負けてしまう。
 明白な流星と流星の合間に気の所為を挟み込みながらも、数を重ねる毎に確信が強まって、思い過ごしは除外されて行く。偶見が水筒からお茶を注いでいる間にも、僕は一つ確認して、変わり映えもない感嘆詞を漏らした。
「えっ、今流れたの? 嘘ずるい、『あっ』て言うの絶対流れた時じゃん」
 そう言いながらお茶を手渡してくれる優しさと温もりを、素直に受け取る。空に視点を固定したまま何かをする事は、結構難しい。
 一時から二時までの計数では、八個と一個。火球と呼ばれる、これも他とは顕著に違って、手持ち花火が吹き出す時の勢いよく燃える様な音さえ聞こえた気がする程、明るく大きな流星も二つ観測した。動きが最も活発になる極大は三時前後、本番はここからだ。
「偶見、寒くない?」
「ううん、大丈夫。寝袋って案外頑丈だね」偶見らしい言葉のチョイスに、思わず笑ってしまう。「宮下君は? 眠くなったりとか」
「うーん……一人だったら、寝てたかも知れない」
「ふふん、可愛い子が横に居る事に感謝したまえ。……、いやあのさ、もしこんな所で寝たりしたら――あ」
 薄れない感動の印が、流星と連動する。
「こんなに、見れるものなんだね。そもそもあたし、流れ星って初めて見るから、今日だけでも一生分見尽くした気でいるや」
「僕も、初めてなんだ。凄い……興奮してる。だけど、こんなに数を見てても、何だか、ありがたみが全然なくならない」
「ね。機会あったら、また見に来たいなぁ」視界の端に彼女が映る。飲むには寧ろ適した熱さになったお茶を注ぐ、その音もどこか、温かくて心地いい。「要る?」
「うん、貰おうかな」
 僕も続いて起き上がる。時間単位で割ったり、流星群かそうでないかを分類したりと、形式には則っているけれど、心で繋がり合いたいだけの僕たちは、厳密に実測をしている訳じゃない。カップを受け取ると、その掌が、僕の両手を包み込む。
「……偶見?」
「手ぇ冷た。カイロとかあるんでしょ?」
「うん、まあ……逆に、何でそんな温かいの」
「さあ? 何でだと思う?」彼女の背景を、横切る光があった。「寧ろ、熱いくらい」
「暑い? あ、でも、観測中は暖を取りにくいから、暑いくらいの方がいいよ。冷ましたりしない方が……」
 言い終わらない内に、偶見が遮る。「ね、今が一番のタイミングだと思わない?」
「えっと、何の?」
「……えー? 男の子でしょ、分かってよ」
 手が離れて、目の前でそっと、偶見の目蓋が降りて行く。
「一〇秒待つから。……後はもう、何も言わないからね」
 暗闇の中で、微かな月暈の様に、彼女の輪郭線が薄く浮かび上がる。
 鼓動が早い。今までのどんな事より、よっぽど勇気が要るみたいだ。
 冷えて軋む体を、くっ、と動かして――その時、合図の様に流れ星が見えたから、
 少なくとも、僕の淡い気持ちを背負った願いだけは叶えられたのだと信じて、
 静かに、ただ一点の熱さに縋った。

 本当の願いは、叶わない事を知っていた。


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