ムラ人を超えて

 「地球が一つの村のように、国境や階層を超えて、多様な人々が多様なつながりを持つ社会が実現する。」
 今から20数年前(1990年代後半)、インターネットが普及しはじめた。少なからず人々は、世界や地域、人類の未来を、希望や夢を、このように語った。


 一方で、少数ではあるものの、このような意見もあった。
「人はますます見たいもの、聞きたいもの、触れたいものしか興味を示さなくなり、地球はバラバラのムラに分断されるのだ。」

 かつて地球上のほとんどの人間は「村人」として居住し、人生を終えた。その期間は歴史的に長い(およそ1万年)。村では常に異質な他者を排除しながら、安定した血縁と地縁関係を基本に、統治者の支配を受けつつも、村内に秩序と安心を追い求めた。しかし、近代化と現在のグローバル化は、血縁関係を離散させながら縮小させ、都市化によって地縁関係を瓦解させた。わたしたちが放り出されている都市化された社会では、安定と安心はもはや自明の前提ではなくなっている。不安と不満、不信と無関心に満ち溢れ、もはや隣人が誰で、何をしているか、何を考えているかさえわからないまま生きている。

 1990年代後半、私は20歳を超えたばかりであったが、今でもパソコンとインターネットに触れた瞬間、はじめて検索サイトで何を調べたかも覚えている。それぐらい衝撃的であつた。その10年後、携帯電話でインターネットができるようになり、2010年代はスマホで動画が送受信できるようになった。この間、私たちはインターネットをいつでも、どこでも掌で操作するようになった。「見たいもの、聞きたいもの、触れたいもの」は、常に今、ここにあり、私たちを離さない。眼前に広がる景観は後景化し、人は目を合わせず、俯(うつむ)いている。隣にいる他者よりも、今ここにいない誰かに呼応している。隣人は、もういない。

 今後とも発展するデジタルテクノロジーは、「地球が一つの村になる」有力な手段になりえるのか。それとも「地球に無数に生み出される分断されたムラ」を生み出すだけなのか。

 私は今、「村」以前の社会を考えている。それは唯一生き残った人類種であるホモ・サピエンス、つまり私たちの壮大な旅についてである。およそ40万年のうちの39万年、森林や荒野を、砂漠を、大海を遊動しながら、信頼する仲間同士(最大およそ150人という説がある)が歩んだ歴史を。そして、そのサピエンス達が定住と村、都市と文明を生みだした、この1万年の歴史を改めて考えてみたいと思う。

「人はますます見たいもの、聞きたいもの、触れたいものしか興味を示さなくなり、地球はバラバラのムラに分断されるのだ。」

 数ある生物種や人類種のなかからホモ・サピエンスは、個としての弱さゆえに「他者を信頼し協力する集団」としての在り方を進化させたと言われる。「賢い人」(サピエンス)と自ら名づけたわたしたちは、これからデジタルテクノロジーのもとで、ムラ人として生きていくのか、それとも、また別の何かを求め始めるのか。問われる時代が、もうすでに始まっていると思う。

#エッセイ #人類 #ホモサピエンス #インターネット #加速主義

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