とある小学生の思考
ある塾に一人の小学生がいた。
彼は灘中学への入学を志しており、数学部で活動する未来の自分を楽しみにしながら日々熱心に——時にはサボったりもしたが——勉強していた。
その甲斐あってか、それとも元々の興味関心故か、彼は算数が抜群に出来た。抜群に。
塾の算数の授業には、テキストの問題を解き始め一定時間経過後解説するを繰り返す形式のものがあったが、彼はあまりにも速い為、その日専用の難問オマケプリントも宿題も授業中に全て解き切ってしまい羨ましがられていた。
灘東大寺を目指す子達だけが集まる授業でも、彼の解答速度は目を見張るものがあった。
しかし彼には、教師も生徒も勿体無いと口を揃える欠点があった。
彼は『図形問題が致命的に出来なかった』のである。
塾にいる子なら大半が解けるような平面図形すら解けないことがあった。何故そこに補助線を引こうと思えるのか。どれだけ勉強しても各問題単位での理解しか出来ないし、誰の説明を聞いても感覚的に思える部分が有り掴み切れない。
あまりにも出来なくて嫌になった時期もあったが、それでも彼は真っ向から解く為の努力を続けた。
ルートの計算や三角関数にも手を出したが、成果はそこまでなかった。
中学受験の平面幾何は結局発想力勝負の解が多い。それに当時のネットの情報量と環境は今程整っておらず、独学で全てを理解出来る程の天才でもなかった。ベクトルが何故有用なのかすら当時は分からなかった。
そこで彼は努力の方針を変えてみることにした。諦めず愚直に考え続ける負けず嫌いな子である。
まず試験の図形問題以外を、何が来てもより一層凄まじい速度で終わらせる努力を積み重ねた。
そして大量の時間を残して、出来る作戦を全てやることにした。
例えば、ハウスダストアレルギーで鼻を頻繁にかむ必要があった彼はティッシュを持ち込んでいた。配布される問題用紙と手元のティッシュと定規等の筆記用具を上手く組み合わせて出題された図形を実際にその場で作成し、それを回したり折ったりすることで有効な発想や補助線を模索する「問題完全再現作戦」。
当然時間はかかるが、本作戦は意外と実を結んだ。
しかし灘の問題はそんなに甘くなかった。そのレベルになると時間を費やす割に成果は少なかった。
灘の一日目の算数の試験は基本15問50分で凄まじい解答速度が求められる構成である。内容の特徴は、3問程度幾何が存在することと劇的な難易度の代数が数問存在すること。
従って一般的な戦略は、劇的な難易度の問題を見極めていち早く捨て、それ以外を解いて12問正解を目指すというものである。
しかし彼は違った。違わざるを得なかった。
彼は図形以外の問題を、劇的な難易度の問題も含めて全て解き、12問正解を目指していた。
そしてそれが充分に実現出来るだけの修練を積んでいた。「一般の灘受験生」が見送る問題と時間内で和解出来る世界に生きていた。
そして時は流れ、中学入試本番を迎えた。
受験票に記載してある日程を見た時、算数の試験時間がいつもより10分伸びていることに気が付き、違和感を感じていた。
そして試験本番、いざ問題全体を見渡した時に、彼の手はピタっと止まってしまう。
問題数が少し減って13問になっており、その内の10問が図形問題だったのである。
ズラッと図形問題が並ぶ光景に絶望する。
なんでこんなことをしたのか疑問に思う。
よりにもよって今年なのかと悲しくなる。
しかしここまで来たらやるしかない。
彼は気持ちを切り替えて代数3問を瞬殺した後、図形問題に一生懸命に取り組んだ。出来ることは時間一杯全てやった。
しかし、試験の手応えと友人との軽い会話だけで、図形問題が全て解けていないことは明白であった。
その失点が大きく響き、彼は不合格となる。
時間だけではなく傾向までガラリと変更され、彼にとって最も致命的な方向性でグレードアップされてしまった算数の試験。
その年まで何十年という規模で観測されていなかった事象が、彼の受験年に発生してしまった。
打ち込んだ中学受験を、特に熱心に磨き上げ続け真摯に向き合った算数を経て、彼はこう思ったのである。
『自分は世界に愛されていない間の悪い人間なのかも。
自分のような人間が積み重ねる努力は本当に虚しいものだなあ』
哲学的な思案を日常的に重ねる新中学生の彼に素晴らしい友が出来るまでに、もう一悶着待っていることを、彼はまだ知らない。
受験と運の関係性の考察において、大衆が用いる具体例には発展性のある例から見当違いな例まで混在している為、僕からも一つ具体例を雑談させて貰った。
皆さんは彼のことをどう思ったであろうか。
お察しの方も多いとは思うが、これは過去の僕である。他者に迷惑は掛からないので、自由に意見して貰って良い。
当然読者の中には、本人の努力を生で見ていない為もっと努力しろよで終わらせてしまう方もいるかもしれない。
そういう大衆は、貴方に近しい誰かに置き換えて思考してみて欲しい。その子に一体どういう言葉を投げ掛けるであろうか。
読者の貴方が、少しでも模倣ではなく思考してくれたならば、僕としては認めた甲斐がある。
最後に一応僕の意見を添えておく。
『彼にはまだ出来ることはあったが、運は確かに無かった』
過去の統計からの推測は所詮推測に過ぎない。思考すればより最悪な場合は想定出来たし、その想定を嘲笑うことなく対策に打ち込めば良かった。
例えば図形ばかりになった場合に備えて、代数だけでなく他教科も凄まじく努力して、合格への余剰点数を大幅に用意すれば良かった。
とはいえ、灘にそれだけの余裕を持って合格するのは至難の業である。
僕は天才ではない。自分でも残念に感じるが、天才ではない。単なる一小学生にそこまでの思考と努力と才能を求めるのは、期待し過ぎとも言える。
運とは『事象発生時点の自己にとっての系外要因が結果へ及ぼす不可視の作用』のことである。
中学入試時点の僕の能力では試験の大型改造を知る術はなく、その要因が自分の試験結果に及ぼす作用は、試験当日問題用紙を見るまでは間違いなく不可視であった。
系外要因というスナイパーに致命傷を負わされた彼は、確かに不運ではあった。
不運と分かったからといって、どこかから何かが補填されたり変化したりするわけではないけれども。
彼の中の何かは、グニョリと捻じ曲がった気がする。