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エッセイ第一回 トマト

みなさんどうも。あべおんじです。

バイトもせず、恋愛もせず、徒然なるままに日暮らし、スマホに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

ということで、エッセイを書いてみようと思います。ずぼらなので、投稿頻度はチョベリバになるかと思われます。

僕は大学に入学してから3ヶ月くらいの間、哲学サークルに顔を出していました。そこで書かせていただいた『トマトについて』というエッセイがあるので、記念すべき第一回目では久方ぶりにそちらを振り返っていこうと思います。



トマトについて

僕は世の中や物事に対して、自分勝手に法則性を当てはめるのが好きです。それが僕にとっての哲学という作業であるように思います。

その中の一つには、「ある対象を知覚してそれを拒絶しようとするとき、あなたはそれに対して鈍感なのではなく、敏感なのだ」というものがあります。

私たちの舌には味蕾(みらい)という、味を感じる無数のセンサーがついています。子ども時代に発達して、大人になると約3分の1まで減ってしまうそうです。

つまり子どもが好き嫌いをするのは、大人よりも味覚に敏感であるからだと言えるのです。ある食材のうま味だけでなく、苦味や臭みまでも全てを知覚できる、ということなのだと思います。



そして僕は、これは味覚に限った話ではないと考えています。

「どんな文章を書いても、自分の言葉ではないという感じがしてしまう」と言う人がいます。でもそれは、彼が人よりも文学に明るいからこそ起こることだと思うのです。彼が小説やらエッセイやら、莫大な文章のデータベースを頭の中にもっていて、それゆえにどんな文章を書いても「あ、コレはあの人のあの一説から来ているな」と気づいてしまう、気づけてしまうということなのだと思います。

僕には人よりも音楽が好きだという根拠のない自信がありますが、時々頭の中でメロディが思いつくことがあります。でもすぐに、「なんだ、これはあの人のあの歌のAメロを丸パクリしただけじゃないか」と思って、すぐにそのメロディを忘れようとしてしまうのです。 

だから僕は普段から音楽や文学に触れるとき、「これを書いて飯を食っている奴は、意外と実は文学に鈍感なだけじゃないのかしら」と、疑いの眼差しでもってそれを享受することがあるのです。



前置きが大変長くなりましたが、僕には嫌いな食べ物があります。トマトです。しかし僕にはわかります。僕はトマトが嫌いなのではく、トマトの全てを敏感に味わっているのだと。そう思うと、トマトにトライする気にもなってきます。

そろそろトマトが旬と呼ばれる季節になるようですね。暑くなって参りますが、皆様もお体にお気をつけて、素敵な夏野菜ライフをお楽しみください。

僕も頑張ってみます。

あべおんじ


とまあこのような感じの屁理屈です。でもやっぱり屁理屈をこねるだけで、忌避するはずのものを食べてみることに契機が生まれるわけです。そこが哲学、もっとライトにいえば、考えることの面白さなのかなと思います。

自分の機嫌は自分で取る。屁理屈は自分をプラスに転がすかたちでこねる。やはりここに尽きるのかな。歳をとってもそんなポンポコリンな屁理屈をこねつづけていきたいものです。



エッセイ第一回、お楽しみいただけたでしょうか。書くネタに飢えているので、皆さんドシドシご応募ください。そこはかとなく書きつづります。

ではまた。

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