総合学習授業支援ボランティアから眺めた先生像

このnoteで「小学校の先生は皆こうです!」などと書く気はまったくありません。だから今まで書かずにいましたが、先生という職業を経験したことが無い会社員経験者が、もし小学校の授業支援ボランティアをしよう!と立ち上がる際に、思い違いやミスリードを私がやった?ように経験してしまうかもしれないので、ここらでいっぺん書いてみようと思います。

小学校の先生だって、それぞれの先生方は十人十色の個性があり、学校によっても差異があることなので、どの学校でもこうだ!ではない事を前提に、あくまでも一個人の感想と意見として受け止めてください。

・先生方の組織は、担任の先生と生徒達の「クラス」がその正体だ!と強く思う。

学校の職員室には先生方がたくさんいますが、そこの先生達の集まりはいわば「先生ギルド」みたいな組合だと私には見えます。本物の「組織」は各クラスであれば、クラス毎にやっていることは当然組織が別なら違うのが当然。こう言い切っても良いのではないか?と思っています。

会社員経験者がそれぞれのクラスの授業風景を眺めると「なーんで教え方とか教える内容がバラバラなの?」とつい思ってしまうような場面がいっぱいあります。最初は新任とベテランの違いが授業に現れているのかと思いましたが、そうではなく、ベテランどうしの授業を比べて参観してみてもやり方も内容も同じではなかったです。会社人間はこういうのを見ると「品質にバラツキがある」と直感してしまう、という特性があると思います。
私もそう思ったので「できるだけ授業計画をボランティアの手で綿密に作成しよう」と、実際にそう突っ走ってしまいましたが、そうすると担任の先生はついて来なくなります。

・ついて来なくなった先生がたぶん使う言葉は「出前授業」だと思う。

出前授業は、先生に代わって依頼された誰かが授業することで、先生が詳しく教えられない専門的なことを子ども達に教えるのが一般的です。が、その気になったら先生がやれるものも含まれていると思っています。

総合学習の打ち合わせの中で先生から「出前授業」という言葉をもし聞いたら、それは「担任としては授業内容に一切タッチしませんので、最初から最後までお任せするからよろしくね!」のサインだと考えて過言ではないと私は思います。

出前授業でもベツに悪いことではなくて、そういう授業がいくつも組み込まれているもの事実なのですが、もし出前じゃなくて先生と共同で総合学習授業をやるつもりなら、綿密な授業スケジュール作成は害があると思います。

・授業では詳細なスケジュールをたてるより臨機応変が重要視されるようです。

ではどうすりゃ担任の先生と共同で授業支援ができるのか?という私案ですが、年間スケジュールとか授業を先生と話し合う場合のシナリオの例みたいなものまでは、会社員経験者である住民ボランティアと先生が一緒に同じ意識で話し合えると思います。
しかしこの先の具体的な授業内容は綿密に決める必要は無く、せいぜい「こんな場面になったらどうしましょう?」程度のことで済ませてしまい、あとは実際の授業に突入してからの現場で、どれだけ上手に授業を演じていくか!ということに集中すべきだと思いました。

生徒は子どもですから予定された行動がそのまんまできる保障がありません。ここが会社員経験者が勘違いする部分で、予定を決めてもそのまま子ども達は動かないかもしれないです。子ども達が動かないときに、どうやって動かすかは、その場で子ども達の様子を観察して「こうやったらどうか!」と閃いて、そのように先生が思ったことをすぐ実行してうまく行ったかどうか見極めるという作業を先生は繰り返しているのだと思われます。このよう臨機応変を予め綿密な計画には書けません。

だから授業支援ボランティアが先生と共同で授業をやる場合は、先生のやるように臨機応変を演じることになるのですが、実際これは先生をやらないとなかなか敷居が高いことです。そういう場合は先生に授業の全面に立って進めてもらい、先生の司会で部分的に補足的な説明とか手伝いをボランティアで実行するようにする方が実際的です。

つまり「出前授業」前提ならいいのですが、先生と共同授業を構えようとする場合はボランティアは主役にならない方がいいんです。

・授業支援ボランティアは、そもそも学校の先生方に歓迎されていません。

これはボランティアをやろうと思っている自身への戒めとして考えていた方がいいと思います。

それでもなぜ学習支援ボランティアがもてはやされているか?という問については、国や教育委員会から「地域と一体になった学校教育」が推奨されているからだと思います。なので地元の小学校には保護者や地域の方々がいっぱい集まり「地域あっての小学校」「我が街の小学校」という合意が形成されています。先生方の本音では迷惑かもしれないけど、これはこれで良いことだと思います。
が、授業を実行するという先生の立場からこの状態を眺めると、いろんな意見を言う利害関係者がいっぱいいることになり、地域住民とのコミュニケーションに割く時間と努力は相当なものになるのは目に見えています。働き方改革へのハードルにもなるでしょう。

私がもしこの状況で先生として働くならば、できるだけ地域住民とは穏便に関わりたいと強く考えることでしょう。その仮説が当たっているかどうかはわからないけど、実際先生方はすごく地域住民に遠慮していて、総合学習授業の打ち合わせで、ほとんど意見を言わない先生が少なくありません。波風立てたくないのだろうなぁと最近は思います。

・ある先生から、過去に住民参加の総合学習を企画して、実際に住民候補の人と会話を始めたけど実施に至らなかったというはなしを聞きいたことがあります。どういうことがその会話で話されたか・・・

「そのぐらいのことだったら学校でやればいいじゃないか」「詳しい人を紹介するから学校からその人に頼んでくれ」「住民の都合にもっと配慮するように」「計画表を出してくれ」「もっとひとを学校で集めてくれ」という具合になってしまい、授業を支援してもらおうという期待とは裏腹に、学校に負荷がかかる事態になりそうになったためやめた、ということなんだそうです。

そういうような背景があってのことかどうか?先生方は打ち合わせですごく控え目な様子で、きっと『負担が自分に降りかかって来ませんように!』と心の中で祈っている先生も少なくないのではないでしょう?でも会社員しか経験のないボランティアは、その姿を眺めていると『先生は国語算数理科社会体育音楽図工以外の授業計画をたてることは出来ないんだ』と誤解するわけです。

「そうだ!問題が分かった!ココを支援したらいいんじゃないか!」というノリで、数日後に「これでどうでしょう!」と立派?な授業計画を作って提案すると・・・ああ出前授業をやっていただけるのですね!と進むことになります。

・「出前授業」をやってもらえると分かると、先生はホッとするのかもしれません。

『出前を頼むなら手間が省ける』という先生の総合学習授業に対するホンネがあるんだろうと思います。

授業をイチから十まで全部先生以外の講師役が務める「出前授業」は効果はあると思いますが、不利なこともあります。まずその授業をしていた人が「今日の授業が最後でした」と、いなくなってしまったら、もうできません。次回は別の内容になってしまうでしょう。なので出前では授業が発展し難いのではないかと思っています。

それに出前授業の講師役は、必ずしも小学校授業に精通していないかもなので、子ども達がちゃんと理解したかどうか査定できません。授業後に聞こえてくるのは「さすが!立派な授業ありがとうございました。子ども達も大喜びです」という耳に優しい感謝の言葉。これに頼っていいのかどうか?わかりません。私が行った授業で子ども達の一部以外はポカンとしているのが見えた内容があったのですが、その時の先生は自身の感想として知らないことがいっぱい分かって面白かった、と言っていました。あくまでも授業の主役は子ども達で、効果は子ども達自身が「よく分かった」のハズです。私の出前授業は子ども達向けとしては難しかったのでしょう。

・学校の一部の先生から、担任の先生と支援の住民のボランティアが二人一緒に前に立って漫才するような授業が出来たらなぁ、って言ったことばを聞きました。

私もそういう構成がいいんじゃないかと考えています。それなら先生のその時々の判断で授業内容の修正ができます。しかしそんな漫才式授業にどうやって辿り着くのか、この道のりで上述したような試行錯誤と勘違いがいっぱい出て来てしまっています。


私はボランティアとしてこれをやっているため、仕事ではないから、いろいろな事情により今後長くこの活動を続けて行くことは難しいかもしれないです。なので、今分かったことは、また新しい気づきがあったら引き続き書いて残して行こうと思います。

まだ中間報告のおはなしでした。

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