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日記:プロムナード

 こうして眠るまえに文章を書いていると、迷いが私のもとを訪れる。コンコン。ノック。やあ。鍵がかかってなかったからさ、いまは悪いかな?
 あるいは彼は眠気なのかもしれない。どちらにせよ、その人は陽気だ。いま、海上を旅するトビウオのように、活力が全身にみなぎっている。そのふるまいの端々には新しい希望のような、心地よさが感じられる。彼は私の向かいに腰かける。君の話を聞いてあげようというふうに、その両腕を突き出し、テーブルの上で手を組む。こちらを見、ぱちぱちと瞬きをする。彼は自信たっぷりで、それはあるときの私によく似ている。
 しかし忘れてはならない。それは”迷い”だ。けして正しい位置の太陽というのではないのだ。私は疑う。彼のその手の甲を見る。ぴくぴくと動く眉、袖の奥の暗闇を見る。私は兆候がないか疑っている。
 兆候? それは何だ? 彼は話す。何もないよ、さっぱり晴れやかさ。僕は誠実なんだ。もうそれは雪解けの冷水みたいにね。私は疑う。やや陰鬱としている。鋤をふるうみたいにして、その暖色の自信の色を受け入れずに相対している。


 ロック・ダウン。いま日本はどうなっているのだろう? 私は世事に疎い。あえて避けていると言ってもいい。以前はわりに熱心なニュースサイト閲覧者だった。いまはそうではないということだ。
 私は今日駅まで歩いた。ノートと、勉強のための問題集、あるいは洋書なんかをテーゼとして駅、その近くまで足をのばした。私が書いているここから駅まではニ十分を要する。
 そして私は何も買わなかった。カフェに立ち寄り、”ジェリコ”を注文した。ジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』を読んでいた。それほど多くを読んだわけではないけれど、彼女の作品が特別面白いと感じたことはない。このエッセイも、同じように感じた。しかしそれは決してつまらないというわけでもないのだ。
 半分ほど読んだあたりで、私は夢に落ちた。ごつごつした皮膚をもつ、その巨人の両手が私から意識の水をすくいあげてしまったみたいに、私は文章を目で追いつつもまったくべつのことを考えていた。それは教授へのメールだった。ひとつは懇意の教授へのもの。もうひとつは知らない教授へのものだった。それぞれに対してどのようなメールを送ろうかと思案していた。
 私の大学ではライティング初心者に向けた小説の講座があった。一年生、そして二年生の前期までは私は抽選に応募していた。ただ、とても人気の講義で、一度も受からずじまいだった。そして、潜りで受けるほど情熱があるわけでもなかった。
 むしろ私は選択的にその講義を取らなかった。切符を手に抽選に参加することと矛盾して、私はライティングの講義を好ましく思っていなかった。
 二年生の時分にはすでにいくらかの作品を書きあげ、周りの素人作家と比べたときに、心の内では書き手としての自分を評価していた。同時にそれは偽りでもあった。いつも作品を書きあげた直後にはっきりと感じていた。その内容の不安定さ。ストーリーラインの震え、語る言葉のぎこちなさ。うつろにも、そう理解していた。ただ、自分の心を守ることがずっと大事で、私は書きあげた直後に熱っぽくなってることをいいことに、それを秘密にして、”都合のいいように読んでばかりいた”。
 ”本当にそうだ。”
 だからこそ、二年のころにはすでに講義のことを忌々しく思っていた。会話の中、明確な言葉で呪ってさえいた。私は恐れていたのだ。曇った鏡の影でなく、実物大の私がその講義のなかで知れ渡ってしまうのではないかと。以来、私は講義への言及さえも避けてきた。
 だが今日になってようやく、私は自分が測定されてもかまわないと感じている。”測定されるべきなのかもしれない”。そこまでは思わない。
 決して私が勇気ある人へと成長したわけではないのだ。私がそう思えるようになったのは尊大さのためだ。私の意識は巨人の手の中で思っていたのだ。「この四年間、小説を熱心にやってきた私のことを知らないままというのはその教授にとって、あるいは悲しきことではないのだろうか?」
 温かい水のように、過度に膨張した私の意識は妄想する。教授との私のロマンを。私の作品に目を通した彼の目元がゆるみ、あるいは”はた”と口の中が空っぽになってしまったかのように、驚きと喜びあるあの感動を覚えるのではないか、と。
 そして、ここで付け加えておくならば、そのようなことは起こらない。


 朝から本を読むのはいいことだ。たとえそれがはずれの――ひどく混乱した、見当違いの文章であっても、朝の加護のもとでなら、私はページをめくることができる。そして文字に目を走らせることはときに人生の幸せを、ときにねじれた妄想の広がりを得ることに繋がる。
 そしてごくまれに、その本の内容によって私が観測する世界そのものが一変してしまう。本当、そういったことは奇跡で、ふつうあり得ない。
 今朝読んだ『ペット・サウンズ』(ビーチ・ボーイズのアルバムと同名の書籍だ)では、まさにそのようなことが、言葉の熱い迸りによって表現されていた。それは小説ではなく音楽でということだが。


 今朝私は家を追い出される。のっぴきならない事情によって。
 それは金輪際、というものではない。家でひとつ「催し」があり、そのために私はそこに居てはならないということなのだ。
 彼女は唇に人差し指をあてる。”静かに”と、やさしく語り掛ける。私はそおっと布団から抜け出す。そしていそいそと服を着替えて、静かに立ち去る。
 朝のカフェで私はモーニングを注文する。アメリカンコーヒーとともに。そして、私はトーストを少ししか食べられない。体の不調? ただ単に、バターで手がべたつくのが嫌だったのかもしれない。
 ともかく、私は食べられない。コーヒーをゆっくりと飲むだけだ。アメリカンをじっくりと楽しみ、本の世界へ、ゆるやかな潜水を始める。海の心地よさを知っている、夏の若者たちのように、私は純粋な心をもって本をひらく。
 今朝私が読んでいたのは『安岡章太郎全集』だった。内容はタイトルの通りだ。
 私はその本についてここで語ることができる。しかし、そうはしない。今日はもう充分書いてしまった。日記としては、ということだが。


 私はそこをのぞき込む。
 それはたとえば洋式のトイレだ。今日が、その掃除のタイミングなのかどうかチェックする。
 それはたとえばタンブラーだ。底に数センチ残っているその水が、新鮮で、飲めるものなのかどうか思案する。
 その日私は同様にグラスをのぞき込む。それがどのような形をしていて、どれくらい大きいかということを知るために。私はグラスを戻す。隣のグラスを持ちあげて、同様に検分する。結局、私は何も買わずじまいで店を後にする。実のところ、私は何かを買うような気分ではなかったのだ。エスカレーターで地階に降りて、行きつけのカフェに行く。そのまえで立ち止まって、やはり私は何も飲む気分になれない。私はそうして観察をしていて初めてカフェの名前を知った。『プロムナード』。

 私は『プロムナード』というタイトルで小説を書こうとしたことがある。妄想の中で、その小説は展覧会の絵そのもののように、奇妙に繰り返されるでこぼことした、あるいは、ピアノの弦のように薄く均一な流れと連続性を意識した、連続短編集として描かれていた。木々のように美しく。しかし、ほとんどの妄想がそうであるように、それは泡となって消えた。
 また、別の時には、彼女は私にこう語る。
「小説を上手くなりたいのなら、実際に書くしかないと思うよ」
 私はその通りだと思う。『安岡章太郎全集』のことをぼんやりと考えながら、その通りだと感じる。

 私の考えた『プロムナード』、そのチャプター・ワンはヘミングウェイの"In Our Time"同様ひどく短い。それはこうだ。
 私は公園を歩いている。そこは風の心地よい、ジョギングのルートが弱いカーブを描き、滑らかな線として円を成している公園だ。人々は走るか、道の外にくまなく敷き詰められた芝生の上でボール遊びをして楽しんでいる。ある人は専用のベンチで体前屈になって身体を伸ばし、またある人は子どもが投げたボールを音を鳴らしてキャッチしている。私はそんな公園を歩いている。時刻は昼を過ぎ、夕方となって、その夕日が鐘の響きのように公園のすべてを燃える赤に染めている。私はジョギングのコースから道を外れる。ほんの少し芝生を踏みしだいて、扉の所へ行く。扉と言っても、それは木製の、落とし戸のようなもので、土地の盛り上がりに沿い、接地して取り付けられている。戸の中は埋め込み式の梯子と、続く地下への空洞がある。空洞の大きさは狭い。私のような細見の人間がやっと通れるくらいしかない。また、戸の奥からは刺激臭がする。それは化学を専門にする人間しかまず嗅ぐことのない、特殊な悪臭だ。降りると、奥の叔父が迎えてくれる。「やあやあ」と。「変わりはないか」と。叔父は本当に私が変わっていないかチェックするように、腕、頭、胸から腹を、それぞれに手を滑らせていく。そのごつごつとした、塑像のような掌で私を撫でる。それから私を導く。その洞穴のさらに奥へと。そこには右手に寝台があり、左手にテーブルがある。叔父は「今日も教えてあげよう」といい、私をテーブルにつかせる。それからこわごわとした、その洞穴に響く男の声で、低く歌うように物語を聞かせる。
「僕はね、こういうのを考えてみた。全ては眠気からうまれる。不可解な打ち明け話があり、最後は埃っぽい土の洞窟に終わる」

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