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小説を書きたい

 僕は小説を書きたい。
 ここ一週間ほど、そう思っている。スーパーに行き、<にんじん、じゃがいも、たまねぎ、糸こんにゃく、こまぎれ肉>をかごに入れ、明日の朝食のためにパンコーナーでバゲットを手に取るときもそう思っている。僕は小説を書きたい。
 そう思って過ごしていながら、僕は小説を書いていない。なんども、なんども、書こうとはしているのだが書いていない。
 最近書いたのはメモ書きのような日記だけだ。自分の思いの丈をつづった、誰に宛てたわけでもない文章をひっそりと書いた。もちろんそれは小説ではない。

 小説。登場人物が出てきて、物語というトロッコに乗って、レールのうえをすべっていく書きもの。僕はそういうのを書きたい。だがいっこうにアイデアが思いつかないのだ。どのような主人公が、どのような場所で、どのような人物に出会うのか。そういったひらめきを久しく感じていない。だから小説が書けない。

 そんないまの僕は停止しているように感じる。四角いちいさな白い部屋で動画を見ている青年がいる。青年はわくわくしながらパソコンにかじりついて動画を見ているのだが、「ピンポーン」、ドアのチャイムが鳴る。そこで少年はマウスを使って動画を止め、ボールペンを探しながら玄関のほうへ向かっていく。青年は動画を止め、椅子から立ち上がり、ペン立てから黒のボールペンを手に取って部屋から出て行く。そしてそれきり、青年は帰ってこない。青年が行ってから三日経っても、帰ってこない。三日は一週間になり、一カ月になる。それでも青年は帰ってこない。ディスプレイのふちには埃が積もる。キーボードのうえにもまんべんなく埃が積もる。閉め切られている部屋の空気は粉っぽくなって乾いている。そこに青年はいない。動画は停止している。ディスプレイは白く輝いている。部屋は電気がつけられたままで、朝になっても、肌に鋭い秋の夜になっても、そこは線を引いたようにずっと明るい。パソコンのぶうんと鳴るファンの音をのぞけば、部屋はおそろしく静かだ。ときおり、窓の向こうから子どもたちの遊ぶ声が聞こえるだけだ。

 僕はそんな止まっている動画だ――頭がおかしくなりそうだ。僕は小説を書きたい。いまも、表現の情熱がめらめらと新しい火花を散らして燃えている。しかし、青年は帰ってこない。彼が長いこと座っていた椅子にさえ埃が積もり始めている。そして一緒に出掛けて行った黒のボールペンも帰ってこない。
 いったいいつまで待てばいいのか? 僕ははやく続きを描きたい。心くすぐるような表現はこれかと、あれこれ悩みたい。青年がかける新鮮な音楽に合わせて、その小説の盛り上がりを仕立てたい。小説のなかで若い女性や「僕」と呼ばれる主人公たちを、危険で浮遊感のある内緒の場所に導きたい。
「こっちだよ。そうだよ。こっちだよ。うそなんてついてないさ。わたしもこっちから来たんだから。そうだよ。だから、こっちにいくんだ」
 あやしい、背の高い草の茂る隠された道を通じて、僕の秘密の部屋に彼らを招待したい。しかし青年は帰ってこない。

 あるいは、これ自体が小説なのかもしれない。小説を書けないとなった人物が「青年」と表するものに対していだく渇望の表現。小説を書きたくて、たまらなくて、全身を掻きむしり、その皮膚はぼろぼろになって赤黒く変色している。目は落ち窪み、外の廊下で音がするたびに「青年」ではないかと身震いし、全身の毛を逆立たせる。しかし、音は通り過ぎていく。音は消えていく。部屋のドアは明るいままでびくともしない。

 動画は飢えた猫のように大きく目を見開いて、「青年」の帰還を待っている。短い頭髪に、こざっぱりした清潔感のある衣服をした彼が、また椅子に戻って動画を再開するのを待っている。かりかりと、固いものを削るように痛みを伴って時間が過ぎていく。今日もまた夜が来る。動画は音に集中している。「青年」の足音のひとつを聞き逃さまいと、外の廊下の音に心を砕いている。その目はドアの端を捉えている。一枚の岩のように静まりかえったその扉が開かれるその瞬間を期待している。<いま>すぐに、青年が何事もなかったように帰ってきて、わくわくとした顔つきで動画を再開してくれるのではないかと、考えている。そう、<いま>この瞬間に。あるいはつぎの<いま>に。
 寂しくも、その<いま>は何枚も何枚も過ぎていく。数えられた<いま>という瞬間は何千枚、何万枚となる。やがて図書館すべての本を並べても足りないほどに、過ぎ去った瞬間は分厚くなっていく。やがて夜が明け、さわやかで光の優しい秋の朝がやってきても、動画は<いま>を数えている。外からは子どもたちが登校していく朗らかな声が聞こえる。ひらかれたカーテンからは道路向かいの緑化公園の景色がのぞいている。部屋は明かりによって統一されて白く、パソコンのファンだけがぶうんと音を立てて静かだ。動画はディスプレイのなかで停止していて、5分23秒のシーンで薄暗くなったまま動かない。

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