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「エッセイ」と猫の留守

 お風呂は気持ちよかった。前日にはシャワーをあびた。それも気持ちよかった。しかしお風呂はもっと気持ちよかった。その事実は僕に風呂掃除の必要性を訴えかけるにいたった。キリン堂で僕と運命的な出会いをした「ルック+ バスタブクレンジング」は「シュシュッとかけて、六十秒待つだけ!」と、秘密を打ち明けるようにそう語った。しかし、甘い言葉はやはり信用してはならなかった。六十秒待てども、百二十秒待てども、あるいは五月がくるのを待てども、こびりついた浴槽の水垢はみじんも取れなかった。掃除なきところに清潔なし。こすりなきところに輝きなし。そう。執筆なきところに文章はないのだ。
 
 僕は「エッセイが書きたい」と思った。それはとても原初的な欲求だった。「お風呂に入りたい」と同種の欲求で、「猫と戯れたい」と同種の欲求だった。しかし、エッセイはできあがらなかった。なぜなら、僕が書かなかったためである。
 
 昨日、僕がアルバイトをしているとき、カーゴを片付けて帰ってくるとまだ手をつけていなかった段ボール箱が開けられていて、ひとつの品出しが済んでいた、ということがあった。白い給食帽と白いマスクの下で僕は「妖精だ……」としきり呟いていた。黒ワンピースの主婦が怪訝そうに二つの目をあげたために、僕は妖精への祈りを中断するにいたった。
 実際の僕らの二十四時間の生活の中では、なかなかこういったことはおこらない。妖精もいなければ、御手々を貸してくださる猫もいない。大理石の玉座の中で指をはじいてくれる神もいなければ、他店から応援にかけつけてくれるアルバイトさんもいない。そうなのだ。じつは往々にして僕らはこの二本脚だけでやっていかなければならないのだ。(ああ! なんて不安な二本脚! すね毛ばかりに覆われて!)
 
 とにかく、そういうわけで僕はエッセイを書くにいたった。
まったく、なるほどである。
 
 しかし、エッセイはそうやすやすとこちらに与するものではない。もっといえば、その我慢強いテーマ性やら意義性やらを取り出してきて僕を混乱させにかかることもある。そもそも、エッセイというのは「努力」という意味である。さてはて、椅子の内側でだらんとしてTwitterを更新し、YouTubeを連続再生し、ぬるいカルピスを飲んでいる僕こと大西羊に「努力」なんて大仰なものを成し遂げられるのだろうか? 
 うう。考えると頭が痛い。ちょっと体調が悪いみたいだ。とにかくYouTubeを見て、Twitterの通知を確認して、それでもう一杯カルピスをつくってから……
 
 ここでグレープフルーツジュースを愛する僕こと大西羊はエッセイを再定義するにいたった。エッセイは「努力」ではない。エッセイは「エッセイ」だと。
 探検隊は伝説の「エッセイ」を発見すべく、書店にて一世一代の冒険にいどむ。
始まりの棚を抜け、平積みの森を抜け、岩波文庫の窟を抜けた先で、われわれはようやく伝説に名高い「エッセイの泉」を発見しえるだろう。そこには「バカの壁」やら、「人生論ノート」やら、じつに品行方正(そう)な妖精(エッセイ)たちが飛び交っていることだろう。われわれは邂逅した妖精(エッセイ)たちをひとつずつ手のひらにとまらせ、ページを開き、その内容をちら見する。あるいは、大胆に立ち読みする。手に取り、ぱらぱら開き、ぱたりと閉じる。それを繰り返す。そして、その結果として最終、われわれはさらにわからなくなるのだ。「エッセイ」とはいったいなんなのだ?
 一昨年の六月ごろ、僕は捕まえたモンシロチョウを見つめながら真剣に「エッセイ」のことを考えていた。僕が「エッセイ」を書く必要に迫られていたためだ。しかし、誰に訊ねても「エッセイ」なるものを話し、解き明かしてくれる人はいなかった。みな、「エッセイ」の段になると話をぼかした。「名前を言ってはいけないあの人」のことを僕は思いだした。そんなわけで僕はほとんど諦めかけていた。モンシロチョウは触手を動かし、緑のふちに興味津々だった。僕が蓋を開けてやってもしばらくは呼吸に合わせて白い翼を上下させ、静かに考え事にふけっていた。
 そのあと僕は「すいか割り」という文章を書いた。電車に乗ってハワイに行く話だった。しばしのあとに読み返してみると、それが「エッセイ」であることがわかった。
 
 僕は昔、猫に好かれていた。または、猫に好かれていたかもしれなかった。心をぱっくりとふたつにわけて真実の話を試みるならば、猫に好かれる人種であると信じたかった。
 猫。美しい存在。しかし、僕の少年期、青年期のうちに猫はいなかった。家に猫はいなかったし、親戚も猫を飼っていなかった。猫たちは樹のうろに身を隠していた。「エッセイの泉」のようになりを潜めていた。だから僕は猫の美しさ、魅力を知らないままで、わんぱくだった。公園で土の上を転げまわっているときにも、猫はなかった。連続したひょうたん型の水溜まりに足を取られ、どたばた激しくすっころびトール神のごとく怒りにこぶしを雨天につきあげたときだって、猫はいなかった。いま考えてみれば、それはじつに平穏なことだった。
 しかし、猫はやはり僕のところに現れた。学校の帰りのことだった。その時間にしては道の暗い帰りだった。夜が早く眠りたい日だったのかもしれなかった。駅を出て、脇道を出たところに猫はいた。小さな猫だった。幼い猫だった。黒に、白のぶちをした猫だった。
 猫はまず挨拶をした。にゃあ、と鳴いた。僕は猫はにゃあ、と本当に鳴くのだな、と思った。僕もにゃあ、と鳴いた。
 猫はふさふさの耳を頭の上でぴくぴくさせながら、こちらに近づいてきた。それから僕の夏用の学生ズボンに、そのほんの僅かな全身をこすりつけてきた。それで……僕は猫を撫でるにいたった。
 猫は痩せていた。あるいは、猫とは本来痩せているのかもしれなかった。少なくとも、僕の指の中で、猫は痩せていた。背中に手をすべらせると、その骨のかたちがはっきりとわかった。猫はあごの下を嬉しがった。それは家の犬と同じで、僕はちょっと安心した。
 猫を撫でているさなか、僕はものを考えていた。帰ったら手をきちんと洗わないといけないな、とか。通りかかった自転車のおばさんが僕らの横をすぎていった。僕は自分がはにかんでいることに気がついた。そして、夜はしんしんとしていた。脇道最後の電灯に、僕は背中を預けていた。
 幾らかの大人がすぎていき、幾らかのゴロゴロ音が鳴り終わったあとに、僕は手を離した。惜しい気持ちでいっぱいだったけど、僕は帰宅しなければならないと考えていたからだ。いまとなれば、どうしてそのように考えたのかわからない。帰宅の必要性を、いったい誰が証明できるというのだ? だが事実僕は帰宅した。帰宅して、かばんを置き、洗面台のまえで僕は、両手を水で洗い流していた。
 つぎの日、僕は猫用かつおを一番外側のポケットに入れて登校した。帰りの時間に帰りの電車に乗った。駅を出ると脇道に入った。脇道を出ると、大通りがあった。振り返ると電灯があった。漠々とした闇があった。
 僕はそれからほとんどの帰り道で脇道を選択した。居酒屋の向かいから入り、ブロック塀の押し合いへし合いがあり、頭をもたげる電灯があった。僕はときどきの場合なんかはかつおを握りしめたりもしてみた。
 しかし猫はいなかった。そしてそれは当然のことだった。
 冬のことだった。いつもと同じく脇道に入った。そして脇道が終わった。僕はふりかえった。電灯の足元にしゃがみこんで待っていた。じっとしていると身体が冷えきっていくのがわかった。すべてが、少しずつ。そして僕は当時付き合っていた女の子にラインをした。
〈僕は猫に好かれるタイプなんだ〉
 返信はすぐだった。
〈そうなの? 猫に好かれる人はいい人なのよ〉
 僕のところから猫が去ったのは、きっとそういう理由のためだった。そしていまも、猫は僕を留守にしたままでいる。


***

これは三年前の夏に書いた作品、
だとおもう。

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