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【学習者主体の学びについて思うこと その④】

僕が本当に目指しているのは「すべての子の学びが保証されること」であり、そのために「一人も見捨てない」を語る『学び合い』を実践していたと思います。一部の子どもたちの存在を無視してまで、子どもたち主体の学習を実践することが目的ではなかったと失敗してみて気づきました。要するに、一人ぼっちの子も含めた教室にいるすべての子のための「学習者主体」なのか、「学習者主体」のための授業なのかによって大きく異なるということです。(ここが自由進度学習と単元『学び合い』の違いだと僕は考えています)

その②で挙げた社会科の授業をしたクラスですが、実際には「一人ぼっち」の子だったり、発達障害のある子の対応をする期間がありました。僕が語る「一人も見捨てない」に納得したのか、僕の「圧」を感じた子たちが関わってくれたおかげで、混乱状態にはなりませんでしたが、「たまたま」うまくいったように見えていただけで、実は数名の子たちに相当な負担を負わせていたのではないかと今になっては思います。

でももし、僕が「一人も見捨てない」を語らずに、ただ単元全体の課題をわたすだけの授業をしていたらどうなっていたか。グループ化が起こり、数名の子は孤立化、クラスの中に格差がうまれて、学習者主体の授業どころではなかったと思います。(実際に、孤立化していなかったはずなのに、保護者からの訴えは何度もあったので、かなり悩みました。関わりがあっても「所属感」がなければ孤立しているのと同じなんだと思います。)

話は少しそれますが『学び合い』の難しさの一つに「どこまで子どもたちを信じてどれほど子どもたちに委ねるのか」があると僕は考えています。『学び合い』では子どもたち集団が有能であることを信じて授業における大部分を任せていくわけですが、「どこまで子どもたちを信じてどれだけ子どもたちに委ねるのか」は教師次第です。過去、保護者からの訴えがあっても子どもたちに委ね続けた時もありますし、保護者の訴えをすぐに受け入れて、自分自身が手立てを行なった時もあります。子どもたちの状態と周りの状況によって、変わってくるのです。だから難しい。

しかも強く願ったり、粘り強く願い続ければいいというものでもないように思います。教務を兼務しながら担任をしていた時のことですが、「強く願う」「粘り強く」なんて余裕はありませんでした。「まあ、よくなればいいか」くらいに思って子どもたちと接していたら、それまで学級担任だけをしていた頃にたどりつけなかった子ども集団になっていきました。言葉にしにくいのですが、ほどよい規律とほどよい学びの姿勢、子ども同士の関係性がほどよく、笑いがあってノリがいい。そんな感じのクラスになりました。あるベテランの先生がこっそり「わたしが子どもだったらおにさんのクラスがいいなと思う。それくらい雰囲気がいい」と言われました。たまたまかもしれないし、僕の「ゆるさ」がそうさせたのかもしれませんが、新たな発見でした。

(その⑤に続く)

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