【吃音】ひとつの言葉にいろんな意味を背負わせる
やあ、どうも。
吃音をかかえるみなさま、こういう経験はありませんか?
とある言葉を言いたいけど、どう考えてもスムーズに口から出てこない。
だから、スムーズに出てきそうな別の言葉に言い換えて口から音にする。
それが常習化していって、最終的にはなんてことない言葉にいろんな意味のを詰め込んでしまう。
わたしもよくあります。
ひとつの言葉にわたしの言いたいことをすべて詰め込んだ結果、伝えたいことがうまく伝わらず「どうして自分はうまく話せないんだろう」とか「もっと流暢に話ができたらどれだけ気楽に人と話せるのか」とかと自分を責めてしまう。
これとの付き合いも長いものでして。
意外と慣れてきたとか、周りもあんまり指摘しなくなってきたとか、変化はあったりするんだけどどもってしまった自分を恥じる気持ちだけはどうしても変わらなかった。
イヤだよね。盛大にどもったとき、目線だけじゃなくて顔をそらす自分が、相手からどう見えたのか気になっちゃうし、周りの人に聞かれたんじゃないかとかも気になる。
頭が冷たい水をかぶったようにサーッと冷えて、遅れて顔が熱くなる。
相手の「気にしていないよ」みたいな空気が、余計にわたしをみじめにしちゃったりなんかしてね。
そうなるのがイヤだから、わたしはスムーズに出る言葉に万感の思いを込めるようになった。
今回はそんなお話。
同じく吃音を抱えるみなさまや、ご家族やパートナーが吃音を抱えているみなさまの、生活のちょっとしたヒントになったら嬉しいかも。
これまでの吃音に関する記事はこちら。
よかったら見ていってね。
さて、わたしがどの言葉にすべてを込めているかというと、それは「すみません」という言葉。
何かと便利なこの言葉。ほら、わたしのプロフィールにも書いてあるでしょう、「すみません!」が口癖って。
これは別にすべて謝罪の意味の「すみません」ではない。
何度も言うけど、他の言葉じゃ喉につっかえてしまうから「すみません」にすべてを込めているだけ。
もちろん「謝罪」の意味でも使うけど、たとえば「感謝」の意味でも使う。
わたしは「ありがとう」がうまく出てこないから、「すみません」という言葉にすべてを背負わせている。
あんまりわたしと付き合いがない人間に、感謝としていきなり「すみません」と言うと、英語で言う「Excuse me」と同じ意味だと誤解されて「どうした!?」と聞き返されてしまい、相手にちょっと恥をかかせてしまうことがある。
違うんです、悪いのはわたしなんです。あなたが恥じることはないんですよ……。
他にも「喜び」の意味で使うこともある。
やっぱり「嬉しいです」が喉につっかえるから、「すみません」にすべてを背負わせている。
「こんなわたしのためにやっていただいて、ほんとうにありがとうございます」をたった一語「すみません」に込めている。
なんとなく「謙遜」の意味も背負わせてる。
「ほんとうにすみません、ありがとうございます」みたいな文脈で使う。
あとは、スムーズに出てこない言葉をスムーズに出すための足掛かりとして使うことも。
「ありがとうございます」を自然に出すために、文の頭に「すみません」を置く。
これは意外と効果的で、どもることなく伝えたいことを伝えられるようになるんだけど、周りから見ると「なんであの人、毎回すみませんって言うんだろう」と思われてしまう。
乱用しているわたしが言うのもなんだけど、あんまりこの使い方はしないほうがいい。
周りに消極的な人間だと思われるから。間違ってはいないんだけど。
いま挙げただけでも、「謝罪」「感謝」「喜び」「謙遜」をひとつの言葉に込めている。
たぶんもっと深く探したらもっと出てくるんだろうけど。
今回の「すみません」に限った話じゃないけど、言葉にいろんな意味を詰め込めるきらいがある。
たぶん同じように吃音を抱えている方には共感してもらえると、勝手ながら思っている。
苦手な文字を避けて言いやすい言葉を選んだ結果、ほんとうに言いたいことが伝わらない。
こういうときって、頭はフル回転で言いやすくて意味が似ている言葉を必死に探しているから、文章のつながりを軽視しがちなんだよね。
で、ただでさえ言葉を探してフル回転している頭のリソースの一部を「自然な文章にしなくちゃ」と文章作りに使うようになる。
ひとつの頭で別のことをフル回転で考えているから、最終的に言葉はつっかえるし、文章はぐちゃぐちゃ。「どういうこと?」と聞き返されてしまう。
これも恥ずかしいよね。
「ちゃんとしゃべらなきゃ」って、焦っちゃうんだよね。
会話の途中でひと呼吸つくれればいいんだけど、焦っているからそれができない。
うん。悲しいし、生きづらいね。
幼少期に友だちからぶつけられた「ちゃんとしゃべれないの?」の言葉が、大人になったいまでもトラウマになっているんだよね。
かつては他人から投げられた言葉を、いまでは自分で自分に投げつけている。
そんなこんなで、今回も吃音のお話。
このテーマでnoteを書くときに毎回言うんだけど、やっぱり文章はのびのび言葉が紡げていいね。
文章を好きになるべくして好きになった感じがする。
最後は、吃音にまつわる作品をひとつご紹介したい。
たぶん、吃音を抱えていて読書がお好きなみなさまはご存じでしょう。
重松清の『きよしこ』という小説でございます。
わたしがこれを読んだのは大学生くらいのころだった。
なんかこうね、最初は胸の内に蓋して隠していた感情を言い当てられたようなショックを覚えた。
トラウマを刺激されるかもしれないけど、吃音を抱えている方々、家族やパートナーが吃音で悩んでいる方々は一度読んでみると新しい感情に気づけるかもしれないよ。
今回はこんな感じ。おつかれサマー。
みなさま、よき「すみません!」ライフをお過ごしください。