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極端な表現の危険性

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先日、友人からこの画像が送られてきた。
私はひと目見て、これは現代教育を批判しているんだなと感じた。
その画像に対して私と同じよう友人も感じたらしかった。加えて、現代教育は悪であると言ったのである。
私はそれを聞いて、極端な表現は危険性を孕んでいると感じた。
確かに、今の教育システムは完璧であるとは思わない。その友人も私も、非常に生きづらい学生時代であったことが理由の一つだ。しかし、一方で友人と私が似たような感想を持ったのは今の教育システムのおかげではなかろうか。

今の教育システムの意義

上記の話をきっかけに今の教育システムの意義を考えてみた。
すると、学校という空間で同じように学ぶことの重要性が見えてきた。
多少の地域差はあれど、全国どこにいても擬似的に同じような空間でほぼ同一の教育を受けることができる。そこで培われた知識や社会集団での生き方が、その後の社会生活における礎になるのは言うまでもないだろう。その礎が常識というものを形作る土台になる。みなさんも感じているだろうが、この常識というものは非常に厄介で、「自分の常識、他人の非常識」という言葉もあるくらい曖昧で実態がない。
しかし、この教育システムのおかげで多少のズレはあるものの、ある程度の範囲内で収まっているのではないだろうか。ここに今の教育システムの意義があると考えた。「好きなことで生きていく」というフレーズが広まりつつある昨今の情勢だが、生きていく以上、社会との繋がりは必ず出てくる。その時に頼りになる一つがこの常識になるからだ。

今の教育システムの欠点

とはいえ、今の教育システムが完璧であるとは思っていない。というのも一定、この画像のメッセージは理解できるからだ。私は今の教育システムの中で過ごしてきたが、まさにこの魚のような体験もしている。友人も同じくそうだ。故に、生きづらさを感じてきた。そもそも、テストのシステムが決められた項目において点数をつけ優越を決めることを目的としているのが問題である。もちろん、指定された項目に対し努力し結果を追うことは生きていく上でも重要なことだ。しかし、これでは自分の特性や向き不向きがわからない。加えて、指定された項目だけが全てになってしまい自分はダメな人間なんだという思考に陥る人もいるだろう。なので、自己理解を深めることをテストの目的に置くことも必要になってくるのではないだろうか。

多面的にものごとを捉える重要性

この画像が抱える危険性に話を戻そう。この画像のように、ものごとをある側面からのみ切り取って捉えると、あたかもその考えのみが正しいように思えてくる。世の中のほとんどの事象は、白黒はっきりつかない。今の教育システムを取っても、上記のように有益な側面もある。そこを考慮せずに自分の主観に基づき、善悪の判断を下す思考は非常に危険だと考える。もし、仮にこの画像から、今の教育システムを大きく変えたとする。そうすれば、恐らく社会は常識を失い滅茶苦茶になるだろう。ほとんどの事象はそんなにシンプルな構造をしていないのだ。故に、安易に判断を下すのではなく、様々な視点から捉えることが重要だと思う。そうやって欠点・課題を知り、改善していくことが未来へと繋がることになるのではないだろうか。

今を生きるために

この話について、思考を深め気づいたことがある。それは「自己理解を深め、世界を知る」ことである。今更、受けてきた教育の欠点や課題について議論しても過去は変わらない。であれば、過去を含め自分への理解を深め、周りの環境(世界)を知り適応していくことが生きやすい人生に繋がるのではないだろうか。