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我欲と平和ぼけ

家族代行なるものが流行っているらしい。

情け無い話だが、若者の論理では頼んでこの世に産んで貰った訳ではなく、親の自己都合で生まれて来たのだから、どんな子供でもどんなに良くない行動を取ろうとも、親は最後まで子供の面倒を見る責任があるが、子供は自分に不都合な行動をする親とは絶縁する当然の権利があるという話らしい。

色々な親がいるから一概には言えないが、大概は、子供が成長するために必要で出来そうなことしか言わないし、身体的、能力的にできないこと、例えば生まれつきとか、事故で寝たきりの状態であるなら、生きているだけで良いと考える生き物であると思うし、子供に面倒を観ろとか、恩を返せとか考えている人間は少数派で、この厳しい時代に子供には何とか懸命に生き延びて欲しい。
その気持ちが強いから余計なお世話をしているように見えるし、勿論、その足枷になるような面倒は掛けたくないからこそ、葬式代などの名目の保険を掛けていたりするものだったりする。

我が家の長男に、今現在の社会の認識について聞いてみたところ、学校や社会が余りにも冷たく厳しく他人は何もしてくれない時代なので、自分を守ることで精一杯で、他人を気遣う必要性を感じないとのことだ。

確かにそれはそうかも知れないが、少なくとも誰かから受けた善意や厚意には、ギブアンドテイクとか、お互い様の気持ちが働かないものだろうかと思う。

誰でも、世の中では自分が主人公で、一番大事な存在なのは当然として、それでも自分の利益よりも相手の利益を考えて尊重してくれる人間には、同じように自分の次に大切にするような態度を取れないものかと思うのだが。

自ら矢面に立って責任を取ることもなく、楽なほうに流れる傾向は退職代行の流行りからも若者にありがちなこととして伝わっている。

昭和の人間の僕から見れば、この時代は、愛も人情も正義という価値観さえもが消え去った世紀末に思える。

金のためには平気で人を裏切り、自分さえ良ければという人間の多さに、これでは結婚などする人間がいなくなるのも無理はなく、少子化に歯止めが掛からないのも当然だろう。

今の社会と環境の豊かなことを当然として被害者意識を増幅させているように見える若者の文化には、独立した対等な人間同士なら、与えられものは形を変えてでもお返しする、借りたものは返すという平等原則の論理が欠落しているように思える。

まだ一応、先進国だと認識しているせいかも知れないが、当たり前に世界を見渡せば、途上国など、親が過保護であったり、過干渉であったりする余裕などなく、愛してくれないとか、褒めてくれないなどという認識が甘いことは分かるはずだ。
極端な話、罪刑法定主義もなく、警察とマフィアを兼務しているような国々もあるのだから、世間知らずと言われても仕方がない。

受け身では、いつまで経っても相手の立場と気持ちを思い遣る必要がないのだろう。

社会は、どんなに小さな事でも誰かの下支えと活動がなければ機能していない。

街が綺麗なのも朝早くからゴミを片付けてくれている人間がいるからであり、食肉もそれらを不本意ながら殺し加工してくれている人間がいるからであり、野菜も毎日、汗水垂らして手を掛けて育ててくれている人間がいるからであり、魚も危険を顧みず苦労して獲りに行ってくれている人間がいるからである。

命を繋ぐことで全てが繋がっているのに、スーパーマーケットでは、加工された商品として陳列されているから、その人々の苦労の過程が見えず、想像力が働かないのだろう。

最近では魚がその切れ端で泳いでいると誤解している子供もいるらしく、だとするなら、食肉も似たような認識なのかも知れない。

ペットと食肉は異なった存在だとでも認識しているのだろうか。

半世紀ほど前、まだこの街が長閑であった頃、僕はペットとして、雛から育てて、名前も付けて飼っていた鶏がいた。

ある日突然、その鶏が父に捌かれ食卓に並んだ時、食べろと言われても味がしなかった事を痛烈に覚えている。

捌かれている最中の血のほとばしりと内臓の強烈な匂いも、現在の無臭社会では想像できないだろうし、今で言えば教育虐待だとか騒がれるのかも知れないが、父なりの命の授業であったと今になって思う。

生きるとは、最近の若者の感覚では、感情や認知、認識の脳活動の世界が強いのかも知れないが、それは死が遠く現実離れした観念の世界に生きているからかも知れない。

そういう場合は、一週間ほど断食してみるとかすれば、生きていることの実感が沸くかも知れない。

自分で命を繋ぐ全ての工程に関わることがなく、自分の生活の全てを他者の活動に委ねているから、その有り難みと苦労が分からないのだろう。

給食にしろ、家庭で提供される食事にしろ、自分の力で得た物など一つもなく、ただ誰かの苦労した活動の結果を受動的に享受しているだけのことだ。

全てが分業されて他者の苦労を知らずに自分の生命活動を維持できている社会は、自ずと社会や他人や親に対する感謝の意識など芽生えないのだろう。

確かにお金で全てを贖える時代ではあるが、戦乱と環境破壊と飢饉が近づく時代になり、金融という信用創造が崩壊すれば、お金では商品と交換してくれない時代になることも過去の歴史が証明している。

あくまでも平時にのみ金は機能するのであり、非常時には当たり前に紙切れに還る。

実業を蔑ろにして、過度に金融に傾倒し、自分の存在が他者の支えで成り立っていることの感覚と認識を忘れたつけは、そう遠くない将来に回って来るように感じている。

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