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人生ゲーム

人生は長い物語だと考えて生きて来たのだが、最近では漸く誰かのために自分を犠牲にして生きるという男性に有りがちな強迫観念から解き放たれ、身体の力が抜けて毎日が自己満足のゲームに近いような感覚で生活している。

正義や同情が長続きしない世の中で、日々訪れる難題や悪人たちにも感情を伴わずに経験的に、まぁこんなものだよなぁと、期待せずにハードルを下げてクリアするようになっている。

自分を犠牲にして家族のために尽くすことが良い父親像であるとのポリコレにも似た価値観に縛られ、長くその役割を演じて来たが、自分を縛ることにより同時に家族も縛って来たのかも知れない。

僕の中の現実認識が他者と共通のものであるはずがないことは当たり前なのだが、それでも同じ時代と空間を生きて来た間柄なのだから近しい認識の下にあるはずだと思い込んでいただけのことで、漸くその乖離に気づいたという間抜けな状況になっている。

我が子供たちを見ていても、遺伝子の半分を共有していながらも考え方や価値観には大きな違いがある。

近親憎悪と反抗期を考えても、半分は自分のはずなのだが、関係が上手く行かなくなる理由はどこにあるのだろう。

相手のあることなので、自分にも問題や原因があることは当然なのだが、理解し合えないという点で、過去の兄弟は他人の始まりという諺が、現代では親子であっても同じことが言えてしまう状況になっている。

同じ遺伝子という方舟には乗っているはずなのだが、人間の価値観と考え方には社会的要因が圧倒的に大きいのではないかと考え始めている。

最近の若者はという嘆きは大昔から繰り返されているが、最近読んだ『職場を腐らせる人たち』という本の中には、自己愛過剰社会という論題が書かれていた。

長男にはほとんど該当しないが、長女と次女にはその傾向が多く見られる。

長女は長い反抗期なのかと思っていたのだが、どうやら現代の若者にありがちな思考回路のせいなのかも知れないと思い始めている。

幼い頃から何不自由なく僕の幼少期よりかなり豊かな環境で育って来ているはずなのだが、自己愛が強く、自分を守るためか決して自分の非を認めることがなく、感謝や謝罪の言葉が言えず、他責的でありながらも何時も漠然と褒めてくれと訴えていた。

僕は遺伝子を共有する子供たちであっても親子という立場や肩書きの前に人であるし、勿論、人としては対等なのだが、どういう存在であるかは親子であることとは別問題だと考えていたので、他人に語るのと同様に筋の通った話をして欲しいと何時も彼女たちには伝えていたのだが、どう考えてもお互い様の論理からは掛け離れた言い分に思えていた。

僕が父から安易に褒められた記憶がなかったせいもあるが、満足できるレベルになくとも安易に褒めることで、まだ伸びる余地があると思っているのに、そこで満足させてしまって、結果として伸びしろを消してしまうことになることは、本来持っている能力の向上を妨げて、後々本人が後悔することになるのではないかと思っていたのである。

筋肉を増やすことにも似て、無理をして限界を超えて努力と忍耐を重ねたほうが伸びる可能性が高い力もあると経験的に知っていたということもある。

最近の若者は努力と忍耐を嫌い、ある程度できれば褒めたほうが伸びると考えているらしいが、昭和の時代の大した実績もない僕が言うのもなんだが、どの程度の地獄をどのくらい潜り抜けて来たかが、その人間の器の大きさであると考えているし、また幸福も不幸との落差の幅に比例すると考えていたので、安易には褒めなかったのである。

人は痛みと苦労からしか真には学ばないし、辛い記憶があるからこそ妥協せずに努力し成長を続けることができると信じて来たせいもある。

現代は自分の好きなことを見つけて好きなように人生を生きて行くことが人の究極の幸せであるとも思っているし、好きなことなら他人から褒められるか否かに関わらず自ら率先してやるものだとも考えている。

褒められなければ出来ないことには自ずと限界があると感じている。

凡人にはそういう考え方と生き方しか見つからなかった。

人間は生まれながらにして平等であるはずもなく、自分の生まれ持った手札を活かして生き延びる人生ゲームに過ぎないと考えている。

カードゲームでも必ずしも良い手札の人間が勝つとは限らない。

機会における平等は担保される必要があると思うが、結果の平等まで担保されると逆に不平等な状況になると考えている。

現代の民主主義とは弱者の言い分と立場に耳を傾けないシステムに変貌してしまっているし、人は皆、幸せになる権利があるとの幸福追求権の過剰な対立構造が、現代社会の人権感覚と相まって若者の勘違いを生み出す大きな要因になっている気がしてならない。

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