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流れるなら

自己愛がある限り、誰かに愛され、必要とされたいと考えるものだが、実際に誰かに愛されると、その重さと負担に苦しむ事も多い。
愛に応えるには膨大な努力と忍耐が必要だし、相手に与え続けてばかりいると、やがて心身共に疲弊して愛など必要ないと考えるようになる。
愛されるためには、愛されるような人間であり続けなければならず、より自分を律する必要があり、ありのままではいられないストレスと精神的不自由に苦しむ。
愛が美しく素晴らしいものだと考えていた若い頃、愛とは欲望だとは気付かなかった。
欲望である限り、煩悩のように様々な、どす黒い感情が付き纏う。
結婚というものが最近益々、難しいものになっている。
お互いに相手を愛するより愛されたいという欲望が強く、その綱引きに疲れて来ると、もう愛してくれないのなら別れるという話になる。
お互いを結び付けるものが、見合い結婚のように、相手の変え難い属性なのか、または恋愛結婚のように、移ろい易い恋や愛なのかにより、それを結び付ける絆の強さには違いがある。
歳月は人を変えるものであり、若い頃の未経験であったが故の理想と希望は、それとは掛け離れた現実を知る度に、深く絶望し、その記憶に苛まれ、人を信じられなくなり、結果、人の本質について疑問を抱き、人に信頼され、評価される事にも意味があるのかと考えるに至る。
どんなに誠実に人に接しても、そんなことは全く意に介さないような人々も多く、見返りを期待している訳ではなくとも、裏切られたような気持ちになり、お互い様の論理で生きて来た事も相まって、自分本意な人間の多さに愕然としたものである。
相手の立場に立って考えて、困った時にはお互いに助け合うというのが人情であるとするなら、余りにも冷たい社会の前に、人情という文化は死んでいるに等しい。
歳を重ねる度に、その意識は深まるのであるが、そう感じているのは僕だけではないと思っている。
法で幾ら人を縛っても、その根底にある道徳観念を喪失していれば、法を犯すのに躊躇しない若者が出来上がるのも無理はない。
それでも、今回の大震災に際して、大谷選手や芸人の粗品などの、自己犠牲を伴った寄付行為をニュースで知る度に、まだ世の中、捨てたものではないなぁと感激するばかりである。
自分の持てるものの、どれくらいを相手に分け与える事が出来るかが、その人間の器量であるとするなら、守るものの多い僕にはとても出来ない事だ。
疫病と経済危機と戦争の繰り返しが人間の歴史であるが、その狭間で束の間の幸福を分かち合う、家族という温かな空間に、殊更、意味を見い出せず、ニヒリズムを気取る若者の諦めも解らなくもない。
でも、今回の大震災で理不尽に家族を亡くし、心の底から悲しい時には、一滴の涙も出る事なく、ただひたすら咽び泣くしかない遺族の姿を見る度に、金という交換価値では手に入らないものについて改めて気付かされる。何とも悲しい時代になったものである。

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