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もしかしたら

民主主義国家でも権威主義国家でも、その国民の現実の立場に立ってみれば、どちらでも良い制度なのかも知れない。

国民の命と基本的人権さえ確実に担保されるなら、自分たちの政府や政権など、例えば、AIなどの人工知能であったとしても構わないと考えている人々は少なくないのではないだろうか。

現在、アメリカや日本など、形式的には民主主義を標榜している国々でも、果たして、本来の民主主義が機能しているかと言えば、そうでもない事実が様々なニュースから漏れ伝わっている。

生活に困窮していたり、命の危機にある者に投票権だけが保証されていたとしても、選挙制度に問題があり、投票価値において平等でないとか、歪な多数決の論理であったりするなら、正しく機能していない民主主義に意味があるのだろうか。

民主主義国家が正義で、権威主義国家が不正義だと考えがちで、正義である民主国家は国家間の紛争において、力による現状変更はしないものだと考えられて来たが、現在進行形で、アメリカを始め、民主制の国々により、力による現状変更が行われている。

極端な話、正義も不正義も存在しないことを痛感させられる時代でもある。

民主制の国々でも、その国の支配階層は特権階級や既得権益の人々の実質的な力による支配になっていて、権威主義の国々と、どれほどの違いがあるのだろうか。

不正義と不平等が横行する社会や国々では、法とは国民を支配するための手段になってしまっている。

僕たちは生まれた時から、国を選ぶことも、民主主義とか、権威主義とかの政治システムも、資本主義とか社会主義とかいう経済システムでさえも選ぶことが出来ない。

それでも、ある社会的仕組みの中で幸せに生きられるのなら、実際には、どんな社会制度でも大差がないと考えている人々が多数なのではないだろうか。

現代では、各国の宗教や政治体制に違いがあっても、人々の欲望はグローバルに繋がっている。

歴史を辿ってみても、国境や社会制度や支配階層が変わったとしても、人々の幸せは、仲間と家族に囲まれて、平和に暮らせるだけのことに帰結しているのではないだろうか。

勿論、社会がより複雑化した現代の若者の苦悩として、お金があっても、家族を得ることが出来る訳ではないとか、愛があっても、愛だけでは食べては行けないなどという難題が横たわっている。

昨今、腐敗した国々の権力者により無理矢理、戦地に派遣されるような前近代的な政治体制には、誰もがうんざりしているし、国のために戦い、命を犠牲にしてまで国を守るという行動を強いられること自体が、時代遅れの遺物なのだと誰もが感じている。

国家とは命を懸けてまで守るべき対象なのだろうか。

命は一度、失われてしまったら、取り返しのつかないものだからこそ、最後の最後まで守り抜き、仮に戦わずに逃げたとしても仕方のないことだと思われる。命さえ失わず、生き永らえることが出来たなら、何時の日にかイスラエルのように、国家を再建出来たり、再起の可能性もある。

自分の拠り所は一つにしてはいけないし、選択肢を増やすべき時代でもある。

大なり小なり、国家とは正義も不正義も内包した、暴力的な要素があり、統治するためには反対する者を容赦なく弾圧する。

不正義と不平等が蔓延し、力による不合理な支配が続く現代国家は、極論すれば、我々が忌み嫌う暴力団と大差がなくなってしまっている。

ただでさえ、多くの民族が内在する状況を、国家という一つの単位に落とし込んでいること自体に無理がある。

僕は無政府主義者ではないけれど、もし、基本的人権と幸福追求権が担保されて、自己実現が可能なら、国家も国籍も必要はない。

僕にとっての祖国とは、命を懸けて家族と国を守るために戦った祖父の死に対して、何らの補償もせず、遺骨すら返還することもなく、残された遺族の生活の支援をする訳でもなかった冷酷な国家であり、戦争責任を全うしたドイツとは、全く印象が異なる。戦争さえなかったら、こんな人生ではなかった、と最後まで言い残して死んで行った父の口癖が今も耳に残っている。

何時の日にか国境が溶けて、国家という封建的な集団が細分化されて、単なる会社組織のようなものになればと静かに希望している。

でも、そんな淡い期待が許されないことは、長い人生経験で身に染みて感じている。何時の世も誰かを虐げて、自らの利益を図ろうとする人間が一定数いるから、いつまで経っても戦争は無くならないのだろう。

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