世紀末の詩
色々と事情があり、人生をリセットするため、僕は今現在、家を売って旅に出る準備をしている。
車を買い納車待ちなのだが、何しろ家が売れないことには代金を支払いようがない。
同時に持って行くべき荷物の整理をしているのだが、古いアルバムの中から父母の若い頃の写真が出て来て、幼い僕の頭を優しく撫でている父の姿があった。
僕にとっては悪鬼羅刹の如く恐ろしい存在であった父が僕を大切そうに見つめている。
生前あまり優しくなれず、大切にもしなかったことを今更ながら申し訳なく思った。
旅に一緒に連れて行こうと思い、そこから数枚の写真を剥がして荷物の奥にしまった。
旅先では、車中泊をしながら、海や川で釣りをしたり、山間部でクワガタなどの昆虫を採って日本全国を周ろうと考えている。
高齢に加え持病の糖尿病があるのだが、旅先では健康管理が難しいことが予想され、どこまで行けるかは始めてみなければ分からない。
名物の食べ歩きもしたいのだが、僕の糖尿病は言わば母との繋がりの証でもあり遺伝的要因が強くどうにもならない。
せっかくの世紀末なので、野次馬根性で、その終わりをどこか遠くで、こういう終わり方なのかと見届けたいとも考えている。
我が同胞たちは生き延びることができるであろうか。
それでも彼らの力と未来を信じて敢えて関与する積もりがない。
子孫に美田を残さずとは父母の故郷の先人の言葉だ。
それにこの先、認知症になったりすると彼らにどれくらい迷惑が掛かるかは長い介護経験から分かっている。
だから旅先で自然死したり、癌になったりしたほうが終わりまでの時間が読めて色々と好都合だ。
命を繋ぐことが当たり前だと考えていた世代であったが、現代の若者の価値観では毒親や老害として毛嫌いされてしまうし、思いやる気持ちと関係になければ、一緒にいるだけで諍いの種になってしまう。
遺伝子だけの繋がりなら、笹川良一の言うように、そもそも人類みな兄弟だろう。
最近では高齢の孤独な老人向けのサービスも充実している。
このままこの街に居ても、辺り一面汚物塗れで掃除も碌にされていないような老人施設に入るしかない未来が待っている。
家族に見放されたと嘆きながらも、戻れる家もなく、安くない費用を請求され続けて、早く死んでくれとばかりに効きもしない認知症の薬や睡眠薬で徐々に去勢されて行き、全身の筋肉が見る影もなく痩せ衰えて骨と皮だけになる。
そんな父の姿をずっと見続けて来たので、僕としてはそれは最も避けたいところだ。
父と同じ惨めな終わり方はしたくない。
思えば父も定年後、突然居なくなったりするようになり、家族総出で夜中まで街中を探し回り、最後は漸く警察に保護されるというようなことが多くなった。
いわゆる徘徊という行動であり、更に物取られ妄想が酷くなり、財布がなくなったと騒ぎ始めた。
警察も交通違反などノルマがあり金になることには人員を割くが、認知症の老人の行方不明などの雑務には時間を取ってはくれず、家族の問題は家族で解決して下さいなどと迷惑そうに言われてしまうのが通例であった。
父は常々、外出する際に口癖のように、世間の風は冷たいなぁと、ぼそぼそと呟いていたものだった。
それは半ば冗談であったと思うのだが、そんな言葉を吐かせるほど彼の人生は過酷であったのかも知れない。
僕は当時まだ若く馬鹿で世間知らずであったためか、何時もくだらない冗談を言うものだと、半ば父を馬鹿にしていた。
しかし最近では僕も同じ科白を吐くようになっている。
転倒して頭を打ち入院するようになってから父の認知症は更に悪化し、度々、夜間に病院中を占拠して大暴れするようになった。
病院からの緊急の連絡で慌てて駆けつけた僕に、ここにいると殺されるんだよ、だからここから逃げ出すんだ、と父は何時も必死の形相で訴えていた。
眼は怒りと恐怖に満ち、僕がそんなことはないよと宥めても、突然、ファイティングポーズを取り、苛立ちながら殴りかかって来るのだった。
その時の父の拳のスピードの凄まじさは、格闘技経験があるのではと思わせるほどで、追い詰められた老人の火事場の馬鹿力に驚いたものである。
漸く警備員と僕と五人掛かりで父を取り押さえて、待ち構えていた医師が鎮静剤を打つと、父は遠のく意識の中で、親に向かってこんなことをしてただで済むと思うなよ、とずっと僕を睨みつけていた。
情けなさで胸が一杯になりつつも家に戻り、眠れずに夜を過ごし、翌日、昨夜の父の言葉に怯えながら病院へ向かうと、昨日のことなどすっかり忘れている父は何事もなかったかのように、おー、よく来たなと、にこやかに食事を摂りながら僕を迎えるのであった。
よく来たなじゃないよと内心呆れながらも、病にさえ罹っていなければ、父もまた自分の行動を恥じているはずで、自分が誰だか分からなくなり、家族や他人に迷惑を掛けている自分を誰よりも許せないと考えているような人間で、だからこそ何もできず、そうさせてしまっている自分たち家族がまた父に対し申し訳ないとみな感じていた。
だが同時に子供たちもまだ小さく手が掛かるのに、いつまでこの生活が続くのかと暗澹たる気持ちにもなったものである。
そんなことを十年以上も繰り返しながら、徐々に体力と認知力を失って行き、それでも肺炎を二十数回乗り越えて、悪魔だから死なないのかもと考えていたところ、元気だった母が突然亡くなったことを切欠に、それを見送るように静かに息絶えた。
最後まで母を守ったのだ、などと美談にして語る親族もいたが、介護と後見に自分たちの時間とお金を費やし、疲弊し尽くした家族の苦悩は当事者でなければ分かり得ないことであった。
歳を取ることも死んで行くことも楽なことではなく、生まれて来る時も死んで行く時も確かに一人なのだが、毒親や老害という言葉で簡単に語られ、片付けられてしまうほど、人の生きる過程や生きた過程は生優しいものではなく、家族や他人の壮絶な艱難辛苦の上に自分があることも知って欲しいと思う。
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