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幸福論

理想と綺麗事で、様々な人権が語られる時代になった。

人間にのみ固有の特別な権利があるとの主張は、
進化論ではなく創世説の世界観であり、神と人間
が特別な存在であると考え、他の生き物と峻別している。

力による支配を正当化する論理に思える。

その考え方が欧米のかつての布教の名目で世界中に宣教師を派遣し、植民地支配を進めた構造に似ていて気味が悪い。

表面上は美辞麗句を語っていても、底意には異なる認識があるのではないかという疑念が湧く。

欧米中心の世界観と優越性を世界に流布し、キリスト教の思想こそが正しいのだと、その認識が世界のスタンダードで、世界中を席巻すべき普遍的な価値観なのだというような驕りが感じ取れる。

個人を尊重する思想から、多彩な権利意識が派生しているのだが、労使関係や男女関係の大まかな部分には同意できても、余りにも微小な部分の権利と権利の不毛な対立や、各々の正義と正義の解り合えない対立構造を生み出す弊害を招いている側面もあるように思える。

そもそも、欧米の人権思想は国家と戦って勝ち取ったものであり、我々日本人は、民主主義も人権も自助努力で勝ち取ったものではなく、世界の趨勢としての人権条約で、棚ぼた式に与えられた権利であり、だからこそ、義務と責任の認識が薄いのかも知れない。

確かに、不適切にもほどがあるというテレビ番組のように、昔の日本、例えば、昭和の時代はコンプライアンスも人権もまるでない時代だった。

個人を尊重するとか、権利を保障するとかいう意識などほとんどなかったが、組織と集団で個人を守ろうという認識はあったように思う。

人権思想が広まるに連れ、個人として尊重され、権利を保障されることが当然というような空気が生まれ、人々は、権利の裏側にある義務と責任の認識もなく、それぞれの言い分を過度に主張し始めるようになり、より個人主義が加速し、自分本位な人間が増えたように思う。

その反面、共助と公助を断ち切られ、ばらばらに分裂した状態で、どこにも帰属することなく、ぼんやりとした孤立と孤独の中にあって、ただひたすら自助を求められる面倒臭い世の中にもなった。

子育てにおいても、子供の人権にまで配慮し、子供を一人の人間として尊重すべきとの思想が、子供の認識の甘さと勘違いを生み出している。

個人として子供を尊重するとは、他者と同じように子供を独立した存在として扱えということなのだろうが、親の側はそのような認識の下に、何不自由させないように、愛情を持って接するが、子供の側は、親が子供を大切に育てることは当然の義務であり、しかも、最近の風潮では、叱ってはならず、誉めなければならないとも主張する。親は戸惑いながらも、懸命に子育てするが、それでも子供は愛情が足りないと訴え続ける。

せめて反抗するなら、自分のことくらい自分でやれとでも言いたいが、親の世話になってはいながらも、だらしない生活をして、何度同じことを言っても謝りもせず、同じことを繰り返している。

確かに、生まれて来てくれてありがとう、という気持ちは、どんな親でも持ち合わせているはずだが、一方通行の感情は、ひとえに親だけの責任なのだろうか。

僕たちの子供時代は、親の手伝いをすることが当たり前で、親がしていることを、ただ見ているだけでは、こっ酷く叱られたものである。

現代の子供は親に与えられることばかりを求め、手伝うとか、助けるという認識は薄い。

僕たちの子供時代とは前提が違うのである。

でも、親子で、こんなにも他人行儀に配慮しなければならない時代とは、お互いにとって幸せなことなのだろうか。

個人の尊重と権利があるから、親に対する要望も強いのだろうが、僕たちの時代は親に対して、今ほど過剰な期待はなかった。

家族という組織の一員であり、一人の人間というか、生き物として、本来は自分の命と生活は自分で守らなくてはならないのだが、まだ子供のうちは、親の庇護の下にあり、生活の面倒をみて貰っているからには、親に対する感謝と恩があるという認識だった。

当時、少なくとも自分たちの存在は、他の生き物と何ら変わるところのない、個人的には、父母の故郷の九州地方から流れて来た山猿の類くらいにしか考えていなかったし、家族の中で、常に矢面に立って支える人間が最も尊重されるべきだと考えていたので、父の存在は大きかった。

今でも、夢に出て来る父は、僕が人の道から外れそうなことをしようものなら、お前は、それでも男か、…女には見えなかったとは思うのだが、俺の眼の黒いうちは、お前を地の果てまでも追いかけて、その性根を叩きのめしてやる、などと、今時の暴力団でも言わないような台詞で、僕を叱りつけたものだった。

父が怖すぎて、この街では、不良になる友だちも少なくなかったが、僕は道を踏み外すこともなく、真っ当な小市民として、この歳まで生きて来ることができた。

その父の眼が呆けると共に徐々に黒くなくなり、茶色から、白濁して来た時には、助かったと、心底、安堵したものだ。

だが、その認識が時代と共に変わったことにより、現代では、あらゆる人々が、息苦しい孤立と孤独の中で、お一人様だらけの世の中を生きていて、みな生きる希望と意味を見失っているように見える。

自分が幸せでもないのに、自分を拡大再生産しようとは考えるはずもない。


本来、組織と集団の中で、互いに承認されることが本質的な人間の幸福であり、長い人類史の中で培われた我々の本能でもあったはずなのだが、個人の権利が過度に保障されるようになった社会においては、僕らは、遺伝子のレベルでそれらに適応できていないのではないかと感じている。

過度な権利意識がお互いを承認する妨げになっているのではないだろうか。

現代社会では、独立した個人を尊重し、権利を担保するためにも、財政的基盤が大切との考えで、より、拝金主義が蔓延しているようにも見える。

人生百年時代だと言われて喜んでいる老人などいるのだろうか。

皆、昔は良かったねと言ってはいないだろうか。

少なくとも我が街では、長生きは辛いと考えている老人が多いように見える。

街には、決して豊かとは見えない、杖を突いたり、車椅子に乗ったりした孤独な老人や障害者の姿が増えている。

人間の幸せとは、金や地位や安定だけでは贖えないものだと考えている。

人間の脳は、未だにチンパンジーなどの霊長類のものと、それほど変わりがないと言われている。

僕たちは、時代と逆行した道のりを歩いてはいないだろうか。


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