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料理に点数をつけることの是非

 はてなブックマークのこの記事を読んで、かつ常々思っていること、料理に点数をつける行為はいかなることかということを多角的に見ていこうと思う。

1.料理に点数はつけれるのか
 これは当然つけれるだろう。記事では唐揚げについて言及されているので、唐揚げを例に使う。記事では「定量化できないものの評価が非常に苦手。」かつ、その日の体調で唐揚げの点数を評価しているが、この前提条件がそもそも間違っているだろう。
 まず唐揚げの定量化は、どこの鶏を使っているのか、油や衣には何を使っているのか、塩やレモンなどの調味料の産地や作り手・使い方はどうなのかの3点(もっと複雑でも当然良い)から評価することができる。まずこの投稿主がおっしゃる定量化の大部分は、数値化できるはずの化学的な栄養素をスコア化することなく、さらにそこに気分というもっともらしいスコア化できなさそうなものを付け加えることで文章に説得力をもたせようとしている、そもそもが論外だ。鶏に点数をつけるのならば、様々な鶏を食べ比べ、100種類あるのならば1-100点までつけることが可能だろうし(ここに個人の主観だという異論を挟みたいのだろう)、厳密な栄養素の面からその点数をつけてもよい(この人の定量化とはこういうことなのだろう)、例えば旨味成分に言及しても良いし、その他成分を複合した味覚から算出してもよい(そういう論文は無数にある。)。そこにさらに衣や油の質・調味料の点数を四則演算する。
 当然気分をスコア化することもできる。5段階程度でもよいし、より厳密に行うのならば100点に区切ってもよい。そしてそれをさらに入れ込むことで食べた唐揚げに点数をつけることができる。
 鶏の点数±油・衣の点数±調味料±気分の点数、至ってシンプルな採点だ。
 分かる、「そんなことを考えて食しているわけじゃない」と、しかしそんなことを日々繰り返し計測し、その集合値をかなりの精度ではじき出すことの可能な人間が存在するのも事実だ。食のことになると、急に素人からフィールズ賞を取るような人まで一緒くたに語ろうとするのは不憫でしかない。
 当然個々で採点後の結果は異なるし、それを言い訳にしたがる感情が存在していることも知っているが、それを言うならばこの世の全てがそうなるし、入試なんてその最たるものになるだろう。つまり日々唐揚げや鯖定食を食べている程度の知識量で、深く考えることなく通り一遍なものの見方で自己に都合よく解釈すると記事のような物言いになるのだろう。
 

 赤丸のところしか理解できない人間が点数をつけれようはずもない。様々な鶏を食べたり、食べ比べたりしたこともなければ、そもそもそんなことを考え生きていなければそうなるのも必然だ。まず日々の体調や気分をスコア化することをオススメする。試行日数は生きた人生分だ。


2.点数をつけることの意義
 これは意識してみれば、我々が日々日常的に行っている行為だ。例えばAmazonなんかでは5段階評価されているが、物を買うときに別の何かを思い浮かべ、その物との比較をし、優位なものを購入するのは誰しも経験があるだろう(あると信じたい)。この比較対象、サンプル数があればあるほどより厳密に優位なものを購入することができる。これはどんな分野でも当然のことで、専門職やプロとはそういった積み重ねで作りあげられている。絵画を毎日見ていれば感覚的な面では絵画に詳しくなる、しかしボーっと見ているのと、そこに点数や理論を紐付けて積み重ねるのとでは人生に雲泥の差が生じる。
 人間を考える葦だとするのならば、そうして生きることこそが人間の証明なのかもしれない。
 さらに点数をつけたうえで他者との比較をすることも重要だ。自己の計算式がより厳密で正しく(?)あるために、比較検証する。端的にはその積み重ねこそが、今の成功者を形作っていると言えるだろう(ちょう適当な感覚だけで成功している人がいることも知っている、答えを知っているとしか思えない感覚の持ち主もいれば、ただただ運の人もいる)。食べログなど酷いものだと思うが、あれはあれで見ているだけで自己を鍛えることはできる、もちろん食べる(数値を得る)ことは必須だが。
 人生などその積み重ねでしかない。


 人間が生きているうえで、睡眠と食事は必ず行わなければいけない行為だ、私はそこを定量化できない人間を信用しない。少なくとも5段階程度ざっくり緩く、ぼんやりと、しかもそれを対外的に声高に表明する。
 ましてや「分からないし、分からないものだ」と公言する、そんな人間が仕事でもプライベートでも「ちゃんと」していようはずがない。恥ずかしくないのだろうか、いや誰もが共通して行う食事という行為になると途端に恥ずかしくなくなるのだろう。世の中が、醤油と味の素に唐辛子胡椒、胡麻油やバターを加えて麻薬卵と呼ぶ何かに支配されるのも必然だ。そして牛丼未満の何かしか食べれなくなる未来が訪れるのも当然の結末なのだろう。

”ちゃんとしてないのが、何だ!”

 どこに行ったってプロのいない時代。
 ただ立っているだけでお金をせびりたい時代。
 奪うことに逆戻りする未来。
 

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