友達は作るものではなくできるもの?うるせぇ黙れ。
久しぶりのnote更新となるのでお手柔らかにお願いしたいところだ。
さて、写真は海ほたるへ行った時のもの。
先日、夜の10時に家を出て高校時代の友人、私含め5人と夜な夜な海ほたるへ行った。
次の日は1限から授業があった。
けれど、まぁ学校に行かなくてもいいかな
そんなことを思っていた。
こう思ってしまうくらい、今の学校生活に意味を見出せていない。
この日は非日常的ですごく楽しかった。
みんなとは大晦日以来の再会。
大晦日以降たくさん誘ってくれたけれど、私が忙しくて行けなかった。それに、みんなも私が忙しいと気を遣って連絡をしなかったのかもしれない。
だから、今回は少し余裕があったから行こうと思った。
心の許せる数少ない友人。
先日、TikTokで流れてきた動画にこんな事が書かれてあった。
【友人は作るのではなくできるもの】
と。
うるせぇと思った。
私は現在、1年制の専門学校に通っている。
心を許せる友人どころか休日や放課後に遊びに行く友人もいない。
頑張って作ろうと思った日も沢山ある。
でも、あまりにも周りが真面目でテンションが上がらないのだ。だから、もう、いいかなと諦めてしまった。
でも、考えてみた。
中高6年間、そして昨年まで3年間学校に通っていた。そして今回は1年間だ。
圧倒的に期間は短いし、こんな短期間に心を許せる友人が作れるまたはできる訳がないのだ。
そう思うと吹っ切れた気がした。
そして、先程も言ったように周りには真面目な人が多い。市役所や県庁なので働いていそうな。公務員でいそうな人達だ。
今の言葉で言うと「しごでき」な人が多い。
私が沢山やっても常に上がいる。
私が1番役に立てたと思えても違う。
私がリーダーになって頑張ろうと思っても、もっと適任な人がいる。
私が先生との架け橋になってみても、もっと先生と仲の良い人がいる。
当たり前かもしれないけれど、私よりできる人が沢山いるから帰り道に毎日ようにBADに入っていた。
何回も何回も学校に行きたくないと思った日もあった。行ったって何の役にも立てないからグループワークなんて無くて、タダの座学のみ授業であってくれと、毎日願っていた。
このことを、お笑いサークル時代の友人に相談したことがある。
その時、彼らは
その言い方はらしいね、でも何でそんなこと思うか分からない。そいつらは面白いことできるのか?
コントや漫才は作れるのか?できるのか??
できないなら自分の方ができることあるじゃん。
と言った。
おい、話の内容が違いすぎるだろ。
でも、何だか救われた気がした。
その日から私はBADに入って、思い詰めてしまっても彼らの言葉を思い出している。
あ、私は漫才もコントもできるし!
と、戦場は違うけれど開き直ることができている。
しかし、こうして、心を許して相談ができる相手は今はすぐ近くにはいないのだ。
彼氏やサークルの友人、そして高校時代の友人達には容易には会えない。
今から会おうで会える距離に誰もいないのだ。
中高校時代には毎日会っていたのに会えない。
だから、
だから、という接続詞はすごく無理やりかも知れないけれども。そのくらい、中高時代の友人やサークルの友人はとても大切にしたい。
深夜のドライブへ次の日一限があっても行く。
同期のみへ次の日一限があっても行く。
でも、すごいのがこれ、飲みいったとしても遊び行ったとしても次の日の授業やバイトには必ず行っている。私はとても偉い。
歳をとるにつれてどんどん出来なくなるかもしれないけれど、若さを強みにできる時までやりたいと思った。
やりたいことをやりたいだけやる。
友達を作るものでもできるものでもない。
ふとした瞬間に意気投合して
偶然何かがきっかけで
自然と話が弾んで
誘うおうとか誘ってくれないかなとか考えずに
どこかにこの人と行きたいって思えて
色んな話ができる
そうして友達になっていくものなのかな
と、22歳の夏、恥ずかしいし痛いかも知れないけれどそう思った。
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