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「哲学対話で道徳を」の特徴

「哲学対話で道徳を」におけるおにぎり流授業を、
「導入」「問い」「対話」「終末」の4分割にして
それぞれの特徴をまとめます。

一般的な道徳の授業と比較して特徴を述べていきたいのですが、
この「一般的」というのが全国津々浦々で違うということが分かりまして…

なので、私自身がやってきた「これまでの道徳授業」と比べます。
読み手の皆さんにとっての「これまでの道徳授業」とは異なるかもしれませんが、
ご自身の授業スタイルと比べながら、特徴を読み取っていただければありがたいです。
(他力本願スタイル笑)

もちろん、どちらがいいとかどちらが悪いを言いたい訳ではありません。
スタイルの違いを明示することで
「哲学対話で道徳を」の特徴が明らかになると期待して、比較して説明します。

そこから、どのような教育観から生まれた授業構想なのかを
授業全体を通して見ていければと思います。
(見ていければと書いているのは、自分でもうまくまとめられるか自信がないので、ひとまず手を動かしてみたいからです)

①「導入」

これまでの道徳授業では、導入の工夫に重きを置いてきました。

「曲を流そうか」とか「事前にアンケートを取って提示しようか」とか「物や写真など実物を見せて興味を惹きつけようか」とか…
例に出すだけでも楽しそうで、アイデアを考えるのが好きな私は、
ここを極めたいと思うとわくわくしますし、
多様な方法があるので好奇心がにょきにょき芽生えて、
きっと児童も授業を楽しみにしてくれるはずです。

導入の工夫については、尊敬する白黒先生の本にも紹介されています。

おもしろすぎて授業したくなる道徳図解:森岡 健太 著 - 明治図書オンライン (meijitosho.co.jp)

工夫を重ねている「これまでの道徳授業」の導入と比較すると、
「哲学対話で道徳を」の導入はとてもシンプルです。

その授業で考えるテーマを、ボンと提示して投げかけます。
「高学年の役割って何?」
これで終わりです。

「テーマをズバリ問う」よさとして、
授業の方向性や見通しを、児童は理解することができます。
「今日の授業は何について考えればいいのかな?」と迷子にならずに済みます。

もうひとつのよさは、
対話を通した児童の変容を見ることができる点があります。

導入と同じ問いを終末で投げかけることで、
授業の最初と最後で、考えが変わったのかが分かります。
友だちの発言に影響されて、自分の考えが更新されたり、
じっくり考える時間があったことで、自分の考えがはっきりしたり、
教員の問い返しによって、もっと考えたいともやもやしたり…

その変容を見取ることができるので、
「テーマを導入と終末でズバリ問う」ことを大切にしています。

②「問い」

これまでの授業では、
教師が用意した発問を投げかけることで授業が展開していきます。
用意された発問は、その授業のねらいに適したものなので、
学びに直結する効率的な発問です。

私は、指導書の発問にお世話になっていて、
自分で発問を考えるほど熟達していません。
発問ひとつで児童の心を揺さぶる技は、これからも学んでいきたいです。

「弾(発問)は一発で十分だ」と本質を貫く発問で授業を研究されている次元さんの「涙の連載最終回」はこちらです。
道徳教育 2023年3月号 総おさらい 道徳授業実践史 - 明治図書オンライン (meijitosho.co.jp)

「哲学対話で道徳を」の場合、児童も問いを投げかけることができます。
特に、対話のスタートの問いは、児童が決めます。

「この問いについて考えたい」という問いをみんなで決めるので、対話へのコミットメントが高まります。

「話すことで自分の考えを確かめたい」とか
「みんなの考えを聞いてみたい」とか
「どういうこと?」とか
「うーん?」とか
どの問いに選ばれたとしても、どんな理由で問いを選んでも「問い決めから立ち会って、自分もそこに参加しているんだ」という主体性を狙えるのではと考えています。

③「対話」

発問を用意して、教師の説話を用意していたこれまでの道徳から、
対話にどっぷり浸れる時間を確保します。

ここにポイントがあります。

例えば、「廊下を走ってはいけない」という教訓について話題になったとします。

先生に「廊下は走ってはいけませんよ」と言われても、
たしかに正しいかもしれませんが、なんだかピンとこない児童もいます。
「先生に言われたからって、守らなきゃいけないなんておかしい。」と
反発する児童もいるでしょうし、
「先生が言っているから守ろう」と
他人軸に頼った判断に慣れてしまう児童もいるかもしれません。

結局は、「廊下は走っちゃいけないよな…」と、
同じ結論にとたどり着くかもしれませんが、
「本当にそうなのかな?」と確かめる時間があるかないかは
児童の納得感だったり、これからの生き方へ影響だったりに
大きな違いが出てくるでしょう。

納得への道のりを、一人で調べる時間にあててもいいですが、
答えがひとつだけではない問いの場合には、
他者の考えを聞いたり、自分の経験を思い返したりしながら、
確かめ合う対話の時間にあてるのが効果的でしょう。

「チャイムが鳴っちゃった時には、急いでトイレから戻りたいしから、むしろ急いで戻ろうとしていて偉いんじゃない?」とか
「校庭で走ると足が速いって褒められるのに、廊下ではなんで褒められないの?」とか、
話している過程でたくさんの疑問や不思議がわきながら、
寄り道しながら自分の納得する答えに向かっていくのです。

そのような対話の時間を、
学校で確保したい。

そのために、教師が用意した発問に答えるだけでなく、
自分たちで湧いた問いをスタートにして対話を続けながら、
問い返したり、答えたり、考えたりしていく対話の時間にしていきます。

自分たちの問いで、自分たちの対話をつくりあげていく。
実際には「自分の」問いじゃなく、選ばれたのは「誰かの」問いかもしれないけれど、
問いづくりに参画したという事実が、当事者意識を芽生えさせ、
問いが思考を活性化させ、
「自分はどうかな?」と自分事として考えがめぐる。

そんな対話時間になるはずです。

④「終末」

終末は、導入で聞いた問いを再び投げかけます。

「高学年の役割って何?」

対話を経たことで、児童の考えに変容はあったのでしょうか?
友だちの考えに刺激されて、新たな考えが見つかったのでしょうか?
友だちの考えと比べることで、より自分の考えが鮮明になったでしょうか?

そのことをじっくり個人で振り返る時間を取ります。
「これまではこんな風に考えていたけど~」と振り返る場合もありますし、
「これからは~」と今後の生き方を前向きに展望する場合もあるでしょう。

ここで教師の説話を入れたいところですが、
一人一人の学びが異なる中で、
教師が果たして、全員に合致する説話ができるのでしょうか?
心に強く残った何かを打ち消してしまうこともあるかもしれませんし、
「あー先生はそのことを考えてほしかったのか」と
急に白けてしまうかもしれません。

だけど、押し付けるつもりではなく、説話を使って新たな考えのひとつとして出会わせたいのであれば、
教師も対話の輪の中に入って、児童と共に探求の一員として、説話で話そうとしたことを話すといいのです。
教師だけが自分の考えを話す場が確保されている対話ではなく、答えを探している児童と教師も対等の立場になって、自分の考えを話すのです。

発問とセットの説話は、効率的で的確ですが、
対話重視の場合には、児童の気付きや新たな問いを言語化するサポートで十分だと考えています。


以上、「哲学対話で道徳を」におけるおにぎり流授業を、
「導入」「問い」「対話」「終末」の4分割にして
それぞれの特徴をまとめてみました。

いかがだったでしょうか?
難しいなー書くのって。

対話重視の「哲学対話で道徳を」をなぜこんなに夢中になって学んでいるか、少しは伝えることができたでしょうか?

一貫して目指していることは、
「子ども主体」であること、「対話重視」であること、
「個別な学び」であることです。

この方法が目指している学びに直結する方法のひとつだと信じていますが、
効果や結果がすぐ見えるものではないので、
数値を出して証明することはできません。

だけど、子どもたちが関与しながら決める「みんなの問い」からスタートし、先生が決めつけた答えが提示されるのではなく自分たちで模索する対話で進み、最後は自分の気付きや学びに向き合う振り返り時間がある
この「哲学対話で道徳を」の方法に、望みをかけています。

いつか、
「自分の内側にも問い、外側にも問い、ものごとを多面的多角的にじっくり考える」思考力や判断力がにょきにょきと育ち、
いつか、
「考えを言葉にしよう、人の考えに耳を傾けよう、互いの違いも歓迎しよう」とする対話力がぐんぐん育ち、
いつか、
「今の自分の考えを大切にしよう、これまでの自分もこれからの自分も見つめよう、そして同じくらい友だちへも配慮しよう」とするケアする力も芽生え、
いつか…いつか…
そんなたくさんの期待を込めていますが、
きっと「哲学対話で道徳を」だけでなく、学校教育全体で育てていくのだと思うと、自分の教育観が見えるようです。

以上、「哲学対話で道徳を」の特徴でした。



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