ファシリテーターは、ポーカーフェイスであるべきか?

「中立の立場をとるために…」
とファシリテーター役が自分の考えを述べないことがあります。

自分の考えは、言葉での表現だけではありません。
身振り手振りや表情などの身体的表現も含みます。
なので、自分の考えを述べず「無表情」を貫くというのです。

自分の考えを述べずに無表情、
つまり、
ファシリテーターがポーカーフェイスであることを、
あなたはどう思いますか?

私は・・・嫌です。
ファシリテーターが無表情なのが、嫌です。

嫌って直球な表現でごめんなさい。好みの問題です。
わたし、そもそもポーカーフェイスの人が苦手でして。
そもそも、というよりも、「もともとは」の方が正しいかもしれません。
今は無表情の人も「その人らしさ」として受け入れられるようになりましたが、昔は特に苦手でした。

普段誰かに話しかける時、音声での返答よりも、目で見て得られる視覚情報に重点を置いて私は反応を見ています。
「あ、今ちょっと嫌そうな顔したな」とか「うつむいていて、話に集中していないんだろうな」「今、目がきらきらした」とか。

小学生は言葉で表現することが大人よりも発展途上かと思うのですが、表情での表現は言葉と比較しても大人と比較してもとても素直です。
そういった意味でも、私は小学生と接することが苦じゃなくて、「今、どんな気持ちかな?」と推し量ろうと努めることができます。

そんなわけで、ポーカーフェイスな人がそもそももともと苦手なので、対話のファシリテーター、つまり対話の舵取りをする中心人物が私の話を能面のように聞くとなると、私は話すことに怖気づいてしまうのです。
「この人、私の話を聞いてくれているのかな」
「私の話に何の反応もないなんて、話す意味や価値があるのかな」
「私の言葉が届いているか反応の確認ができなくて、受け入れられていないと感じるな」
という具合です。

ちなみに、参加者は進行に関して舵を取ることはできません。
船に乗り込みますが、運転はしません。
「今から〇〇をします」という掛け声を聞いて、身を委ねていきます。
「ここまでです」と言われたら、そこで船を降りるまでです。

つまり、進行に関して受け身である状況を受け入れて、参加者は望んで船に乗るのです。
「船長をやりたいです」と言う人は、人の船には乗ってこないでしょう。
自分で選択して、参加者役として搭乗します。

もちろん、船に乗っている間どのように過ごすかは参加者次第です。
なので、対話に関して自分の心持ち次第で主体的に参加できます。
しかし、進行に関しては船長の案内に従う心構えで搭乗します。

一方で、ファシリテーターは船の舵取りができます。
参加者の意向を確認しながら進む場合も、独断的ではないとしても「次は〇〇をするぞ」と先の見通しをもっています。
自分の発言が、参加者が動くきっかけとなります。
ある意味、ファシリテーターが道しるべとなり、ファシリテーターによって秩序が形成され、ファシリテーターの権威性が生まれます。

そうした中で、ファシリテーターが自分の考えを話してしまうと、「これが正しい」と思わせてしまう懸念があります。
だからこそ、ファシリテーターが自分の色を出さずに、引き出すことに集中することは理にかなっているのかもしれません。

だけど、ファシリテーターが無表情で居続けることが正しいのでしょうか?
そこにいるのは、ロボットではありません。
言葉を聞いて自動的に感情が湧き出ることもあります。
経験が想起されて、自然と体も表情も緩むこともあるかもしれません。
ファシリテーターがいち参加者よりも影響力があることを把握したうえで、
一緒に探究したっていいじゃないか。
一緒に驚いていいじゃないか。
一緒に楽しんでいいじゃないか。
無理して無表情を貫く必要はない。

と思うのです・・・

「あの船長が率先して踊ってる!うちらも踊っとく?」
みたいな、そんな影響力ならどうでしょう?
対話の活性化につながったり、思考のきっかけになるなら大歓迎なはずです。

「あの船長が難しい顔して考えてる…こりゃ難航しそうだぞ。」
それじゃ不安ですか?
学びの探究をするこの船は、乗っているだけで楽園にたどり着く自動運転ではありません。あっちへ行き、こっちへ行き、正解のない道をすすむ、
ミステリーツアーなの。
ファシリテーターも正解を持っていない。
だから、ファシリテーターも参加者と一緒になって、探究を続ける。
そんなファシリテーターがいてもいいよね?

という話…
まとまりなく終わります(笑)

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