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絵画とはなにか?消費生活から芸術を考えること

絵画とはなにか。

このように冒頭を打ち出してしまうと、テーマが大変に広大でこれだけでもう収拾がつかないだろうことは明らかである。

たとえば「この絵、好きだなあ」とか、「この絵の色使いがいいです」というように、個別の絵(特殊な、特定の絵)について考えたり、感想を述べたり論じたりすることは、比較的わたしたちに身近な行為だと思う。
しかしながら「絵画」そのものについて考えてみると、あまりにも思考の対象が巨大で視界に収まらない気がするし、また霞がかっていてよく見えないような気もする。
一般的な諸概念というのはそれだけわたしたちは能く解っていないものなのだ。

この記事でわたしが考えてみることも、絵画という一般概念のその巨躯のほんの一部分に焦点を当てておこなわざるを得ない。
そこで今回わたしが問題にしたいのは、絵画というアートフォームとわたしたちの消費生活の関係についてである。

しかしこれでもまだ十分に大きな枠組みである。わたしがこの記事で明らかにしたいことのためにはもっと素朴な例に落とし込む必要があるから、ここで一気にひとつの具体的経験にまで距離を詰めて話しをしてみよう。

わたしは先日一枚の絵を買った。訪れた展示会で、かねてよりファンであった作家の作品を購入したのである。本記事ではその絵の価値(どう良いとか)については捨象し、絵画を買うという行為について論及を続けていきたい。
わたしたちは普段からコーラを買ったり本を買ったり、カレーの材料を買ったりピザを食べに行ったりと日々消費活動をして生きているが、絵画を買うということはあまりしないと思う。少なくともわたしにとって、今回のそれは殆ど初めてのことだったいってよい。
しかしながら、絵画やアート作品というものはおおよそその供給の数とは裏腹に受け手の母数がコーラやピザのそれより格段に少ないと思われる。つまりコーラやピザの場合に比して供給/需要のアンバランスさが際立つ。

理由はいくつか考えられるだろう。

まずすべての作品が某ビバレッジ・メーカーのコーラ飲料ほど人口に膾炙するクオリティを有するわけではないし、ピザほど人間の欲求に直接繋がった商品ではない。つまり供給される作品には質的に顕著なピン/キリがあるということである。加えて、アート作品はそれが無くてもわたしたちの日常的生活には何ら支障がないということも大きい。

更に、これは何よりも大きな問題であると思しいが、わたしたちが絵画という同一のアートフォームの中での分断を、無意識に受け入れてしまっているという問題がある。
これはどういうことか。たとえば「絵」を例にとってみるとすると、吾峠氏作の『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎のポスターやフェルメールの「牛乳を注ぐ女」のコピーを買ってそれを自室に飾ることは比較的よくあることかもしれない。しかし、他方で世間的にはあまり、もしくは殆ど知られてないような作家の作品を購入し飾るという行為はなかなかしている人もいないのではないだろか。

あまり、もしくは殆ど世間的には知られていない作家の作品を買うという行為。そこには少なくとも2重の障壁が待ち構えていると思われる。

第1に、このような作家の作品とは、言い換えれば資本主義経済と広告社会のメインストリームから零れた作品のことであり、その意味では(語弊を恐れずにいえば、)「素人の」作品であるといえよう。「素人の」作品にどれだけの価値があるかについての客観的な指標を求めることは非常に難しい。むしろ客観的の指標というのはつまり世間の評価であるから、この意味での「素人の」作品にはそのような評価はほぼ存しないさえいえるかもしれない。
そのため「(何となく)この絵いいな」などと思っても、その時用いることができる評価の尺度は自分の主観以外に何もないことは多分にあるわけである。したがってそこに客観的価値、つまり誰にとっても共通の価値を持つお金を投入するという行為はかなりの勇気がいることだと思う。

煉獄杏寿郎の絵と「素人の」作家の絵の本質的な分断は受け手(ファン)にあるのではない。それは少なくとも一次的には、巨大な資本主義社会の構造とその広告戦略によって作られた、作品そのものには外的な分断である。「受け手にとっての良いもの」を決める尺度は本来受け手の主観にしかないはずである。このように作品の価値の決定を自らの外部に委託するという現象は、「素人の」作品を受容し楽しむこと上でのもう1つの障壁と関係している。

第2の障壁は、そもそも絵画作品をはじめとする媒体が「芸術」という烙印を押され、わたしたちの生きる日常生活の外に押し出されてしまっていることである。
これは何よりものボトルネックである。

先に述べた煉獄杏寿郎について考えてほしい。これは秩序だったストーリーをもったマンガ作品の絵であるが、それのもつ様々な文脈(ストーリー、それにより際立つキャラクター、受け手のファンとしての歴史、マルチメディア化、etc…)を切り取ってしまえばただの「刀を持った赤髪の男性の絵」に過ぎない。このとき、『鬼滅』という作品を知らないものから見ればこれがひとつの「絵画」とみられることもあるだろう。
それを享受する文脈の外に出てしまえば、いくら魅力的な絵であっても「芸術」の烙印は免れず、したがって日常生活の外の事柄であることに変わりはない。つまり、この限りにおいては芸術に親しまないものにとってのフェルメールの絵画と煉獄杏寿郎の絵はまったく同じ地平におかれてしまう

それでも煉獄杏寿郎のポスターを、わたしたちが「当たり前に楽しむ」、「お金を払うべき価値のあるもの」として構成しているものは、吾峠氏のまさに「芸術的な」物語り仕立てでありそしてまた、そのマンガ作品を「みんなが知っている」ものへと昇華させた、集英社をはじめとする関連諸企業の卓越したビジネスセンスなのである。

わたしたちが煉獄杏寿郎の絵を購入すると決める最終的な判断はわたしたち自らに委ねられている。もしそこにある外部的な尺度、つまり「みんなが知っている」というようなものを取り除いてみたとき、わたしたちがそれにお金を払うかどうかはどれだけこの絵のもつ背景、つまりどれだけ『鬼滅の刃』が好きかどうかに懸かっているのである。

さて、この「絵の背景を好きかどうか」という尺度はまさに一人一人の主観にならない。そしてそうであるならば、「素人の」作家の作品についても、好きならばそれにお金を払うことは全く当たり前の行為であるといえるのではないか?

「絵画」「芸術」「アート」という言葉や観念が一人歩きをして、わたしたちからは程遠い、なにか天空のもののようになってしまっているという感覚は、実は筆者であるわたし自身がもっていたものでもある。
煉獄杏寿郎の絵も、ある「素人の」作家の絵画も、一枚の絵という形式の上ではどちらも芸術的な作品であり、つまり同一のアートフォームである。
そしてわたしが今回ある作家の絵画作品を購入するに至ったきっかけは、まさにその作家の作品と自らのコンテクスト(文脈、背景)的な土壌が育ったことにある。そのとき「絵画」「芸術」の作品はマンガ作品と同じ地平の上に降り、(わたしがかつて『鬼滅の刃 第23巻』の豪華版を予約購入したように、)わたしの日常的な消費生活の中へと現れ出たのである。

どんな「絵画」であっても、つまりフェルメールであろうが吾峠氏であろうが若手であろうが、そのようなアートフォームがわたしたちに親密なものであるためには何よりもこのように文脈の獲得が必要だろう。
絵画をはじめとする「芸術作品」の頂上には、おそらく歴史の教科書で名前を目にするような有名な芸術家のものが君臨しているのかもしれない。そしてまた彼らの諸作品は、客観的な評価に裏切らないだけの実効的なインパクトも有するはずである。
とはいえ芸術作品はひとに見られてはじめてその意味を有する。芸術は本質的に他者(受け手)の眼差しを前提としている
興味を持たれなければフェルメールであろうが吾峠氏であろうが若手(の「素人の」作家)であろうが、その作品は芸術的価値を有さない。フェルメールのようなハイ・アートだったり、もしくはたくさんの若手の作家の作品だったりが、「絵画」「芸術」「アート」というラベリングを受けることで、わたしたちの日常的な消費生活にとり入れられないというアイロニカルな不遇を被っているという現実があるのだ。

ひとによっては暗い感覚を得るような文章になってしまったが、最後に、ひとつ希望的なお話しをして本記事を終わりたいと思う。
ここまでに述べてきたように、芸術作品がわたしたちの消費生活に受容され、組み込まれていくことはそう難しいことではないとわたしは考える。それは名だたる芸術家の作品を展示した美術館にあるのではない。その入り口の鍵はSNSというプラットフォームにある。

フェルメールにしろ、北斎にしろ、多くの芸術家は過去の人物となってしまっているし、草間彌生や村上隆といった存命の現代芸術家であっても、「芸術」にまだ親しみを持っていないひとびとからすれば心的距離はとても遠い。天上の存在であるかのようである。
しかしわたしたちと同じ今を、わたしたちの同じように必死に生き、芸術を志すまだ無名の作家たちがいる。そして彼らの多くはわたしたちと同じプラットフォーム、TwitterやInstagramといったベースメントに寄り添って活動している。
フェルメールの作品に親近感を持てなくとも、フォロワーの誰かの作品なら親みを覚えることは比較的容易ではないだろうか?そして、歴史的な芸術家であっても、まだ若手の、「素人の」作家の作品であっても、その芸術的な価値は第一義的にはまったく異ならないとわたしは考える。
ここまで読まれた方がもしいたのならば、ぜひ気になった作家の作品を見て、そしてもしできることなら作家の創作活動の具体的な応援をしてみて欲しい。拡散でも購入でも、なんでもよいと思う。芸術家たちに、より実定的な、この世界にとって具体的な輪郭を与えていくこと。そのような行為自体が、芸術というどこか遠くの出来事を天上のくびきから解き放つこと――ひいてはわたしたち自身の生活により彩をもたらすこと――のための大事な鍵であるのだ。

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