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後悔を歓迎する。

わたしは、大学受験をもっとがんばれたような気がしている。受験から6年たった今でもそう思う。

あのときは自分が受からない想像は一切せず、ただただ盲目だった。模試の結果はあんなにも正直だったのに、高校の全校集会できいた現役生の伸びしろに期待ばかりをこめていた。結局、滑り止めとして受けていた大学にしか合格しなかった。受かったのは第11志望の、もはや全く志望していない志望校だった。

先日、兼子さんという方のエッセイを読んで、こんなにも自分にまだ受験の後悔が残っているのかと気づかされた。

兼子さんは、甲子園をみて後悔をするという。夏になると、校内推薦をもらうために耐え忍ぶ毎日をおくってきた自分の高校時代と、甲子園球児をくらべてしまうようだ。

もしかしたら、わたしたちは「もっとできたはず」という努力の余地をおもって後悔し、自分ができなかったことをしっかり成し遂げている人をみて、また後悔するのだろう。そしてこの気持ちは、いつまでたっても心に居座り続けるのがやっかいだ。

でも、ひとつだけ救いがあるのだとしたら、後悔を今に生かすことだ。なかったことにはできないけれど、教訓として踏み台にすることはできると思う。

受験を失敗したことだって、思い返せばちゃんと人生の教訓になっていた。逆転劇はそうそう起こらないということ。数字は裏切らないということ。よくない結果について、ネガティブな発言をつづけていると大切な人を困らせてしまうこと。

後悔を反面教師にすることができるのだとしたら、それほど怖がらなくてもいいのかもしれない。

なんなら自分という植物が育つための肥料になってくれるのだから、後悔をしたときには、両手をひろげて歓迎するくらいの心持ちでいるのも悪くない。

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