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夢中で投げ続けた日々

 6月22日、ボウリングの日ということで記憶の引き出しを開けてみた。
私のボウリングに対する引き出しは二箇所にあった。

中学生時代
 友達のお父さんがボウリング場を立てて営業を開始した。それまで、ボウリングはテレビでしか見たことがなかった。中山律子さんの時代だ。当時一世風靡した女子プロボウラーだったと記憶している。♫中山律子さん♫の軽快な歌を使った花王のコマーシャルソングも耳に懐かしい。

 そんな時代に、初めてボウリングというものを経験した。友達はよくボウリング場に誘ってくれて、私はゲーム代も払わずにボウリングを楽しんだ。最初は三つ空いた穴をどう使うのかさえわからない状態だったが、次第にその楽しさにはまっていったことを覚えている。

 程なくして、近所にいた兄貴的存在の人とボーリングの話をしていたら、ボウリングの球と手首のサポーターをポンとくれた。これが私のマイボールとなった。中学三年生の頃だったと思うが、なんと重さは15ポンドもあり重かった。フックボールの投げ方を教えてもらい。なるほどサポーターは手首がボールの重さに負けないために便利なツールだと感じていた。

 だが、そんな天国のような時間も長くは続かなかった。私が住んでいたのは超がつくくらいの田舎町。ブーム到来といえどもボウリング場に足を運ぶ人はそれほどいなかったようだ。程なくしてボウリング場は潰れてしまい、友達の一家は忽然と消えてしまった。跡地は、田舎に行くとよく見る光景かもしれないが、家具の展示場となり、何十年も経過した現在では催事場に生まれ変わっていた。

新人サラリーマン時代
 40年以上前、最初の仕事についた。もちろんIT業界である。この時は、神奈川県の小田原のそばに住んでいた。会社仲間で仲良くなった男数人でよく近くのボウリング場に出かけた。幹線道路沿いのドライブインみたいになっているところにあるボウリング場で、車を持っている若者たちや家族連れがよく集まっていた。時にはレーンがいっぱいで順番待ちすることも少なくなかった。その時は時間潰しにビリヤードで遊んでいたことを覚えている。そういえばボウリング場では、卓球台とビリヤード台をよく見かける気がするが何か理由があるのだろうか。

 おりしも、当時はボウリングブーム再来で、料金は覚えていないが投げ放題というサービスが登場していた。もちろん、我々もよく利用したのだが、ある時フロントで制限を言い渡された。当時ゲーム記録は手書きで書いていた時代である。受付の時にその紙をもらうシステムになっていた。一枚の紙で10ゲーム分記録できるようになっていた。我々は多い時は一人20ゲームくらい投げていたので、追加の記録用紙をフロントにもらいにいっていたのだ。それが常態化していたのでフロントもたまりかねたのだろう。「おひとり様一枚以内でのお楽しみをお願いします」と言われた。投げ放題を謳っていたが、あまりにも回転率が悪かったのだろう。だが、おかげで生涯最高得点である206をマークすることができたのだった。

 今はもうボウリング場は無くなっているようである。


 その後、ボウリング場とは縁が遠くなっていき、全くボウリング場には行かなくなった。東京でも広島でも近くにあったのだが、なんとなく若かりし頃の熱量はもう私の中に存在していなかったようである。

 今となっては、良き思い出として記憶の引き出しの中に残っているだけだ。

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