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ヨガのプラクティスで亡き人を弔う

ずっと前からヨガレッスンで言い続けていることがある。
「一人でヨガのプラクティスができるようになって下さい」
ということである。

スタジオに通ってレッスンを受けてくれるのはもちろんありがたい。
けれどもいつでもどこでもマットを広げるスペースさえあれば、いや、スペースなくても椅子の上でもできる、もっと言っちゃえば寝たきりになってもできるのがヨガの素晴らしさなのだ。

本当にプラクティスを重ねていけばヨガとは生きる術であり、日常の不調やストレスや人生の困難を乗り越えるための知恵であり、日々共に生きていくものだという事が分かってくる。

だから私はレッスンでこう言う。
「ゴールは私なしでプラクティスができるようになる事です。
私が明日事故で死ぬかも知れない。
スタジオ経営困難で閉めるかも知れない。(全然笑えんけど(^o^))
それでも自分一人でヨガができれば何も怖くない。
たとえ災害で家から出られなくなっても
救助を待っている間ヨガで心を落ち着けることができるんです」

時々私はインストラクションなしで「はい、勝手にフローして」と生徒さんに言い渡して部屋の隅に座って本を開くことすらある。
自分の身体と呼吸の声を聞きながら自分の動きたいフローが出来るようになれば、どんなアクロバティックなポーズよりもずっと上級者。

もう何年も熱心に通ってくださる一番弟子の生徒さんに、つい最近身内の突然の不幸があった。久しぶりにスタジオに現れた彼女は突然の不幸だったわりにはいつもの元気な顔でこう言った。
「いつもまきさんが言ってる、自分でヨガが出来るように、というのはホントですね」

突然の不幸で慌ててお通夜とお葬式で走り回ってやっと家に戻った彼女は2日間1時間ほどかけて、陰ヨガのプラクティスをしたのだそうだ。
走り回った身体の疲れとストレスとで起きた身体のあちこちの痛みや疲れがすっきりと治り「なんか清々しい、元気じゃん、私」と笑顔。

もちろん突然の別れが辛くない訳ではない。
けれども我々は生きている限り別れを何度も経験することは避けられない。
そして自分の番が来たら地上の全てとおさらばだ。

それでも、いやそれだからこそ
今、ここにある自分の身体、自分の呼吸、自分の生命とつながることが他のどんな知識や逃避の為の娯楽や救済を謳う宗教よりも役に立つ(断言)。
自分の今ここにある存在とつながることは亡くなった人への弔いでもある。
自分の存在とはその人とのつながりでしか完成しなかったのだから。

こんな事を私がグダグダ書かなくても彼女はもう知っている。
何しろ自分でプラクティスできるヨガ上級者だから。




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