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2002年3月の追憶~脱北者少年に会った話

 韓国語の話ではないですが、22年前の2002年3月(韓国は新学期が3月です)、韓国の大学で暫く働いていたときに、偶然出会ったある少年がいました。名前はチョルスー、年齢は正確には覚えてないですが、15歳くらいだったと思います。知り合いの人に連れてもらって事務室のところまでたどり着いたようでした。

 その知り合いの人は私の同僚だったので、普通にお互い挨拶交わしーどうして大学生でもないように見える子が、大学に出入りするんだろうとか疑問を抱きながらー、暫くだけで良いので、その子を呼んだ先生がまだ見えないから、少しだけ居させてくれと頼まれました。

 ちょうど仕事が終わる頃でしたし、可愛い笑顔のチョルスーとはすぐに仲良くなりました。このようなことはその後も2,3ヶ月間続きました。どうやらうちの学科の先生からの用があったらしく、毎回決まった曜日に事務室の業務が終わる一時間前ごろに来て、私とは数分、ときには1時間以上もしゃべっていました。

 彼には両親がいらっしゃらないそうでした。 古里から生きてここまで来られたのは、自分一人だと言っていました。今は大勢の友達と一緒に暮らしているそうです。彼は自分の古里が「平安北道(ピョンアンブットー)」と言っていました。ということは、北の方の道(日本でいう県にあたるもの)なので、鈍感な私はそのときになってやっとチョルスーが「脱北者」であることに気がついたのです。 
 
 学校には通ってなくて、検定試験を準備しているようでした。「○○大学に入るためにはどれだけ勉強すればいい?」とか、「ヌナ(お姉ちゃんのこと)は最近誰の曲が好きなの?」とか極普通の会話をしていたので、違う点などまったく感じることもなかったのです。 

 しかしある日、ご両親の話を聞いたときは私の心臓が鳴りました。チョルスーのご両親は北朝鮮から中国に脱出するとき、チョルスーとお姉さんの目の前で銃で打たれ銃殺されたそうです。その話自体も驚いたのですが、それよりも、こんな話を苦笑いで普通に語っている彼にもっと驚いた私を、やっぱりそうかと貫いているかのようにーいや、普通に冗談を言うような顔に近かったのですー彼は語り続けました。「ヌナ、人が死ぬことがどれだけ簡単なことなのかわからないでしょ。俺は何回も人が銃で撃たれて死ぬのを見たよ」と。

 それ以来、二人とも全くご両親の話は口にもしませんでした。また何週間か経ったある日、再び脱出の時の話をしてくれました。残った家族は言葉にできないほど大変な経験をして、中国等で5年間苦労して、やっと行動に移ることになったんです。丸1週間雨水以外にはほとんど口にすることもできず、寝ることもできず、川を泳いだそうです。それからまた一ヶ月かかって韓国に送還される間に、お姉さんもなくなってしまいました・・・ 
 
 チョルスーが来なくなってから私は、彼が元気にしているのか心配になったり、初級中国語の勉強でわからないところがある度にーチョルスーは韓国語より中国語の方がうまかったのですー彼のことを思い出したりしました。

 ある経路を通じて、彼が「ハナウォン(韓国語社会に適応するまで世話をしてくれる所)」という施設にいることがわかって、一度行ってみようかとも思いましたけども、やはり人間は目に見えないことに弱いでしょうか・・・忙しさに追われ、自然と忘れていきました。でもどうしても、彼の微笑だけは未だに鮮明に頭の中に刻み着いているのです。

 この前、NHKスペシャルで、未だに不幸が続くウクライナの話を観ていました。 もうすぐ3月11日だと思うところで、その原因が自然災害でも、戦争でもなんでも、個人の人生がこれ程、環境や時代に左右されると思うと、ものすごく人間ってか弱い存在だと感じてしまいます。

 昔のこと思い出して綴っただけなので、何が言いたかったのか纏まらないですが、3.11が近いせいか、NHKスペシャルを観たせいか、来月でチョルスーと初めて会った時と同じ年になる息子が居るせいか、なんか心がずっとそわそわしています。

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