見出し画像

優秀なビジネスマンが抱えていたギャンブル依存症。苦しみの中にいる彼を支えた言葉とは

画像7

4月上旬から全国に出されていた緊急事態宣言が解除されました。日常が少しずつ落ち着きを取り戻し始めたように見える一方で、宣言を境に生活が一変した方も多いのではないでしょうか。

大きく変化したものの一つが、働き方。生活の中心である「仕事」の形が変わることは、多くの人にとって想像以上のストレスとなっています。そしてその苦しみが、「依存症(依存している状態)」という思いもよらないことにつながっていくこともあるのです。

現在ワンネスグループの沖縄地区で依存症治療共同体のディレクター(施設長)を務める島辺岳志も、かつて働き方の変化をキッカケにギャンブル依存症となった一人です。現在はワンネスグループでの回復プログラムを経て、依存症に苦しむ人をサポートする立場として活躍しています。

過去には、大手の運送企業で全国トップの業績を収めたこともある島辺。

一見、優秀なビジネスマンとも思われる彼がなぜギャンブル依存症に陥り、どのように回復への一歩を踏み出したのか、同じくワンネスグループの三宅が話を聞きました。
(対談は、5月上旬にオンラインで行われました。)

画像2

島辺岳志(しまべ たかし)
2004年に大学卒業後、新卒で建設会社に入社。山梨県での現場研修ののち、宮城・岩手 エリアの営業を担当。2009年に大手運送会社に入社し、4年目には営業成績で全国トップを獲得。その後ギャンブル依存症と診断され退職し、現在は一般財団法人ワンネスグループ沖縄GARDENのディレクター(施設長)を務めている。

画像3

三宅隆之(みやけたかゆき)
1974年長野県生。一般財団法人ワンネスグループ共同代表/精神保健福祉士。自身がギャンブル・アルコール依存症に苦しんだ経験から、依存症回復支援に取り組む。
北海道/横浜/茅ヶ崎/名古屋/奈良/大阪/沖縄など全国に支援拠点を構え、市民向けや学校向けの依存症セミナーなども開催している。自身の可能性を信じることができなかったかつての自分の姿から、「可能性を閉じ込めず、可能性を信じ、自由に発揮できる世の中」をつくるため活動中。

初めてのギャンブルは高校生のとき。お金が増えることへの憧れがあった

三宅:島辺さんが初めてギャンブルをしたのは、いつだったんですか?

島辺:高校2年生のとき、友だちと一緒にパチンコ屋に行ったのが初めてのギャンブルでした。本来17歳はパチンコをしてはいけない年齢なのですが、高校時代の友人にはヤンチャなやつも多くて。前々から興味があったのでついて行ったという感覚が近いですね。

三宅:前々から興味があった、というと?

島辺:幼いころからパチンコに対する興味がありました。というのも、私の父がパチンコをしていたから。

私の家は貧しくて、お小遣いももらえないし、流行りのゲームも買ってもらえない。けれど父がパチンコで勝つとお菓子をもらって帰ってくるんですよ。それがうらやましくて。子どもながらに、パチンコ屋は「お金を増やせる良い場所」なのだというイメージがありました。

それでも、パチンコを始めた高校生のころはアルバイト代を少し使う程度。お金を使い果たすということはありませんでした。

環境の変化をきっかけに、ギャンブルが加速する

三宅:学生時代は、ギャンブルと上手く付き合えていたんですね。転機を迎えたのは、社会人になってからということでしょうか。

島辺:そうですね。ギャンブルにのめりこむようになったキッカケは、就職して生活環境が変わったことでした。

三宅:どんな変化があったのですか?

島辺:新卒で建設会社の営業職に就き、研修期間は建設現場で働いていました。先輩たちはいわゆる”現場の人”。お酒を飲む人もギャンブルをする人も多く、仕事終わりに「一緒に行くか」と声をかけられてギャンブルに行くことが多くなったんです。

研修期間を終えると支店に配属になったのですが、周囲の先輩たちは既婚者ばかり。土日休みに遊びに行く相手もいなかったので、ひとりで一日中ギャンブルをするようになりました。いつしか、ギャンブルのし過ぎで背中や肩に痛みを感じるまでになりました。

三宅:身体に痛みを抱えてまで通うことに、問題意識みたいなものは……?

島辺:ありませんでしたね。もちろん、依存症(依存している状態)だという意識も全くありません。ギャンブルのしすぎでお金が底をつき、消費者金融に借金をし始めたのもそのころでした。

初めてお金を借りるときは、もちろん迷いや罪悪感があった。けれど、それも最初だけです。次第に「次の給料で返済すれば問題ない」と考えるようになり、罪悪感もなくなっていきました。

三宅:なるほど。しっかりと給料をもらっていたことで、「借金をしても、返せば良い」と思ってしまっていたんですね。

島辺:そうです。けれど、勤めていた会社も数年で退職することになり……。

三宅:となると、借金返済も大変になってしまったのでは?

島辺:退職してからしばらくの間は、「ギャンブルしながら返済」という日々になりました。ギャンブルだけで生活していけたらいいな、なんて思いもあって。

三宅:生活できるほど、ギャンブルでお金を稼げていたんでしょうか?

島辺:1日1万円、というところです。数字だけ聞くと悪くないようにも聞こえますが、早朝からパチンコ屋に並んで閉店まで打ち続ける生活です。拘束時間はとても長かったんですよね。

ある朝パチンコ屋に並びながら、スーツを着た同年代の人を見かけました。そのときに、「いつまでもギャンブルばかりしている場合ではない」と強く思いましたね。前職を退職してから半年もの時間が経っていました。

営業成績全国一位。活躍の裏に潜んでいたギャンブル依存症と、問題意識を持てない自分

画像4

三宅:転職後は、どんな仕事をされていたのですか?

島辺:借金返済を目指していたので、給与水準の高い運送業に就職することに決めました。入社当初は苦労もあったものの、仕事自体はとても楽しくて。徐々に売上の高いお得意様たちを任されるようにもなりました。

三宅:社内での信頼も厚くなっていったんでしょうか?

島辺:そうですね。継続年数が長くなるにつれて部下も増えましたし、自分の成績も上がっていきました。4年目には全国で営業成績トップとして表彰もされ、ますます仕事が楽しくなっていきましたね。

三宅:では、借金も順調に返済できていたんですね。

島辺:いえ、むしろ借金はどんどん膨らんでいました。転職したころは給与を借金の返済に充て、ギャンブルも控えるようにしていました。けれど、それが続いたのも数ヶ月。少しずつ危機感や罪悪感が薄れ、また以前のようにパチンコ屋に通う生活に戻ってしまったんです。

三宅:やはり営業成績トップの裏には、大きなストレスがあったということなのでしょうか。

島辺:私の場合は仕事ではなく、「借金があること」自体をストレスに感じていました。家族や恋人にも借金の存在を隠し続け、「早く返済しなければ」という気持ちに追われてさらにギャンブルにお金を費やす……。悪循環でしたね。

三宅:それでも、家族や恋人、同僚には隠し通せていたのですか?

島辺:あるとき、家族と恋人に借金の存在がバレました。怒られ、泣かれ、親には返済に力を貸してもらったりもして……。病院に連れていかれて「ギャンブル依存症」の診断を受けたのもこのときです。

三宅:診断を受けて、どのように思いましたか?

島辺:正直、診断をうけてもなお問題意識は持てませんでした。ちゃんと仕事も収入もあって、立派な営業成績も残している。それなのに自分がギャンブル依存症だと言われるのは借金があるせいだ、と思い込んでいました。

自覚がないので、当然ギャンブルはやめられません。診断を受けた後も、借金返済を目指してパチンコ屋に通っていました。ついに彼女にも愛想をつかされ、ギャンブルも加速。闇金にまで手を出すようになってしまったんです。

もう無理だ、と助けを求めたら、ワンネスグループにつながった

画像5

(写真:ワンネスグループに就業した後の島辺)

三宅:闇金にまで手を出してしまうと、精神的にもより追い詰められますよね。誰かに助けを求めたりはしたのですか?

島辺:職場の先輩に相談を持ちかけたことはありました。けれど返ってきたのは、「俺もギャンブルが好きでよくやるし、借金をしたこともあった。でも今は趣味を見つけたから、お前も大丈夫だ」という言葉で。

どうすれば借金を返済できるのか、この状況を抜け出せるのか……。その答えを見つけることはできませんでした。

三宅:そこからどのようにワンネスグループにつながったんでしょうか。

島辺:あるとき、いつまでも変わらない自分の状況に疲れてしまって。「もう無理だ」と思ったんですよね。会社にいけない。このままだと借金も返せない。アパートを出て、路上で暮らそう、そんな覚悟までしていました。

最後のつもりで、親に「今までありがとう」とメールをしたんです。もしかしたら、「助けてほしい」って気持ちが、まだどこかにあったのかもしれませんね。

すると翌日両親が、ワンネスグループの職員と一緒に私を訪ねてきました。

三宅:そこから、ワンネスグループに入所することになったのですね。会社からはどのような反応がありましたか?

島辺:当時の上司は、怒らなかったんです。「会社のことは気にせずしっかり治してこい」、と。嬉しかったですね。入所して数ヶ月経ったころに、一緒に働いていた社員たちから色紙が届いたこともありました。

回復の道のりは、正直平坦なものではありませんでした。それでも私は、周囲の優しさや温かさに支えられながら、無事に回復ステップをクリアすることができましたね。

三宅:いま島辺さんが当時の自分に声をかけられるとしたら、どんな言葉をかけますか?

島辺:「今の状況から脱する方法はあるよ」、と言いたいですね。当時の自分は、「とにかく借金を返してなんとかするしかない」としか思えなかったんです。でも、借金をどうやって返すのか、どのように今の状況を抜け出すのか、一緒に考えてくれる人は必ずいる。ワンネスを頼って、と伝えたいです。

画像6

(写真:島辺は現在、2歳の娘の子育てにも奮闘中だ。)

心配だな、と思ったときに会社としてできること

島辺:私からも三宅さんに質問させてください。私のように、誰にも言えないけれど実は裏側で苦しんでいるという人はたくさんいるのではないかと思っています。会社や上司が、「ちょっと心配だな」と思う人にできることは何かあるのでしょうか?

三宅:一番大切なことは、心理的安全性のある環境をつくることです。当事者にとっては、苦しさを共有できる場があることは非常に大切です。安心して相談できる関係性になっておくことで、本当に危ないところまで踏み込んでしまう前に、状況を伝えることができますから。

また、組織全体に心理的安全性があれば、相談を受ける側も、困ったときに人事部や経営陣などに適切に相談できますよね。依存関係に陥りにくくなることは、互いにとってメリットになります。

島辺:なるほど。そのほか、組織としてできることはありますか。

三宅:会社として、メンタルヘルスに関する正しい知識に触れる機会を設けることだと考えています。

昨今うつ病に関しては関心が高まっていますが、依存症(依存している状態)に対してはまだまだ関心が低く、「だらしない人がなるもの」という誤った知識を持たれていることもあります。
会社として、依存症をはじめとしたメンタルヘルスに関する学びの機会を設け、経営陣も含めて向き合っていく必要があります。

島辺:同期や先輩・後輩などの近い間柄の仲間が苦しんでいるときは、どのように声をかけるのが適切なのでしょうか?

三宅:本人に対しては「あなたのことが心配。どこかに相談することが役に立つかもしれないよ」という声のかけ方が適切ですね。また、当事者との関わり方、声のかけ方などの適切な情報を知るために、ワンネスグループのような組織に連絡するというのも有効な手段です。

「ギャンブルやお酒についてはプライベートなことだから」と、会社として、同僚としての介入をためらう気持ちも理解できます。けれど、予防線をはってしまったがために大切な仲間を失ってしまうこともある。心配だなあと思う相手には、突っ込んだ関心を持つことが何よりも大切です。

画像7

「ちゃんと治してこい、という上司からの言葉が嬉しかった」。これは、対談の中で、島辺が何度も口にした言葉です。

依存症に関する正しい知識が十分に広まっていない中では、本人が自分の苦しみを口にすることには大きなハードルがあるでしょう。しかし、だからこそ、相談に耳を傾けてくれる人の存在は、大きな支えとなるはずです。

依存症を他人事と思わずに、突っ込んだ関心を持ち、学びを深めること。それこそが、依存症に苦しむ人を救うための、そして依存症から回復した人の再チャレンジを応援するための第一歩に違いありません。

(書き手:中野 里穂)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?