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サッカー少年が陥った薬物依存症とそこからの脱却。彼の人生を変えた「愛のある」言葉

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「最近は暑いから朝6時前から山仕事をしてるんです。昼からはサーフィンしたり、潜ったり、海にいることが多いですね。ほら、今年はこんなに焼けて。」

健康的に焼けた肌を見せながら言うのは、宮崎県で山師として働く酢谷映人(すや えいと)さん。彼は、ワンネス財団でディレクターを務めたのち宮崎に移住し、現在は大自然の中での暮らしを満喫しています。

少年のように笑う彼がかつて薬物依存症(依存している状態)であったと言われても、にわかには信じられないでしょう。そして多くの人が「薬物に手を出したのはきっと軽い気持ちからだろう」と想像するのではないでしょうか。

しかし映人さんに話を聞いて見えてきたのは、孤独と戦い続ける過去。

今回は、一度は彼薬物依存の状態に陥りながらも、今では生き生きと”自分の人生”を歩んでいる彼に、ワンネス財団のメンバーが話を聞きました。

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酢谷 映人(すや えいと)
兵庫県生まれ。中学時代の経験をキッカケに10代で薬物依存症(依存している状態)になり、ワンネスグループでの回復プログラムを受ける。その後ワンネス財団に就業してディレクターを務め、2020年6月に退職。現在は宮崎県で林業に従事しながら、サーフィンや素潜りなど、海を楽しむ生活を送っている。

力でねじ伏せれば認められる。暴力をふるい続けた子ども時代

―映人さんはどんな子どもでしたか?

幼稚園のころからサッカーが大好きで、毎日毎日サッカーばかりしている子どもでしたね。中学生のころはプロサッカー選手になることを本気で目指していて、「お前なら本当にプロになれる」と周囲からも期待されていました。「サッカーしかやっていなかった」といっても言い過ぎではないくらいに、サッカーに夢中でした。

ープロを目指すほどの実力があるサッカー少年と聞くと、正直薬物のイメージとは結びつかないのですが……。

そうかもしれませんね。実際に、僕もいきなり薬に手を出したわけではありません。中学入学後に少しずつ「悪い道」に進んでいくことになるわけですが、その入り口は薬ではなく暴力でした。

―他人に暴力を振るうようになってしまったということですか?

そうです。物心ついたころから、自分に自信がなかったんですよね。他人に対する強いコンプレックスがあって、「誰かに認められる生き方をしなければならない」といつも思っていました。小学生の間は、サッカーのスキルをつけていくことが周囲からの承認につながっていたんです。だからこそサッカーに夢中になっていたのかもしれませんが……。

ところが中学に入学した途端、評価の軸が「サッカーの上手さ」ではなく、「年齢」とか「学校内のカースト」に入れ替わってしまったんですよね。今までサッカーによって認められてきた自分の存在が、突然否定されたような気持ちになって。

新しい環境の中で自分の価値を見出すためにはと考えたときに思い浮かんだのが、暴力でした。ここで生きていくためには力でねじ伏せるしかない。そう思うようになっていきましたね。

―そこからどのように薬物乱用をするようになっていったのでしょう?

友人に暴力を振るい始めたころは、どんなに悪さをしていても夕方のサッカークラブの活動には欠かさず参加していました。けれど次第に、クラブのメンバーのことも「自分の思うように動かしたい」と思うようになってしまったんです。それからは、チームメイトに手を上げたり、試合中に暴力事件を起こしてしまったり。

当然、悪さをすればするほど自分の居場所はなくなっていきます。独りぼっちになってしまうことへの恐怖心はあるのに、誰かに助けを求めることも、心を開くこともできない……そんなときに友人にすすめられて手を出したのがシンナーでした。

―シンナーを使うことで、心は満たされた?

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満たされたというよりも、「忘れられた」といったほうが正しいかもしれませんね。どれだけ心の中に怒りや恐怖が渦巻いていても、シンナーを吸えば感覚が麻痺して不思議と安心できた気がしたんです。夢に向かって一生懸命なサッカー少年だったはずなのに、いつしか、唯一夢中になれるものがシンナーになっていました。

見放さなかった大人たちと、それに応えられない自分

―当時の大人たちの反応は?

周りの大人は誰も僕のことを見放さなかったんです。障がいのある友だちやいじめられっ子を守るために暴力を振るうこともある不器用な僕のことを、大人たちも放っておけなかったんでしょうね。

たとえばサッカークラブのコーチたちは「サッカーでなら進学できる」と推薦で高校に進学させてくれようとしていました。学校の先生は中3の僕に特別に建築業の職場見学をさせてくれ、不良上がりでも社会で頑張っている大人がいるのを見せてくれました。

家族も「ちゃんとしいや」「学校に迷惑かけたらあかん」と、根気強く声をかけてくれていた記憶があります。

―大人の助けを借りながら、中学は無事卒業されたんですね。

そうですね。卒業後は通信制の高校に入学して鉄筋工の仕事も始めました。ですが、上下関係も仕事の内容もなかなかに過酷で。それでも家族にこれ以上心配はかけられない、という思いがあって、誰にも弱音を吐けないまま歯を食いしばって働いていたんですよね。

あるとき、母が心配そうに声をかけてくれたんですよ。「映人、最近どうなん?」と。今まで強がっていたけれど心配してくれたことはやっぱり嬉しくて、思わず「しんどいよ」と弱音を吐いてしまって。

―それに対してお母さんは……?

何もしてくれなかったんです。今思えば、心配してくれているからこそなにもできない、息子に何をしてあげればいいのかわからない、それだけだったと思うんです。

けれど当時の僕にとっては、ずっと苦しい思いをしてきた中でようやく助けを求めることができたのに母が何もしてくれなかったことがとてもショックで。「どうせ自分のことは誰も助けてくれない」と孤独を深めていきました。

今振り返ると、周囲の大人は何度も手を差し伸べてくれていたなぁと思います。でも当時の僕は、その愛情を素直に受け止められなかったんですよね。もらい方がわからなかった、というか。

ーお母さんとの出来事がキッカケで、周囲の人とのかかわり方も変わっていったのでしょうか。

そうですね。自分のことは自分でどうにかするしかないと思うようになっていたので、誰にも相談せずに鉄筋工の仕事は辞め、大阪のクラブで働くようになりました。周囲の人間関係も大きく変わっていきましたね。

夜の街の大人たちは、皆僕のことを可愛がってくれたんですよ。「映人、一緒に飲もうよ」「映人、明日も来てよ」って。誰かに必要とされると、自分に価値が生まれているように感じますよね。それが嬉しくて、彼らと一緒にお酒も飲んだし、薬もやった。そこからまた僕の薬漬けの日々が始まりました。

「誰かのため」の回復から、「自分のため」の人生へ

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―そこからどのようにワンネス財団とつながったんですか?

転機が訪れたのは、薬漬けになって4年が経ったころ。気づけば、仕事ができない、お金が回らない、ご飯が食べられない状態になっていきました。薬のせいで、人として生きることができない状態になっていたんですよね。薬理効果の中でしか幸せを見つけられなくなっていて、薬の効果が切れているときはとにかく人が怖い。自殺を考えるほどになっていました。

おそらくそのタイミングで母がワンネス財団に相談したんでしょうね。突然、「映人、奈良のデイケアの壁を塗る仕事をしない?」って言われたんですよ。

―ワンネス財団のデイケア施設の壁を塗る仕事?

そう。母は僕のことをよくわかっていたから、いきなりインタベンション(家族やパートナーに代わり、専門家が直接回復への歩みを促す介入方法)をしても応じないということはお見通しだったんでしょうね。僕はお金がほしかったから「給料が出るんなら行くわ」と(笑)。

ただ、実家から奈良の施設まで毎日通勤するのは現実的ではなかったので、壁を塗る仕事が終わるまでは施設で生活することになりました。それがワンネス財団と僕の初めての関わりでしたね。

―なるほど。お母さまが映人さんのことをよくわかっているからこそのアプローチ、という感じがしますね。そこから自然と回復プログラムが始まることになったんですか?

いえ、そうではなくて。初めは、壁を塗りながら施設の中の様子を覗くだけです。それでも、水族館みたいに窓の外から「こいつら何やってんねやろ」と見ているうちに、次第に回復プログラムにも興味が湧いてきて。壁を塗り終わって実家に戻った後しばらくしてから直接的なインタベンションがあり、回復プログラムを受け始めることになりました。

―本格的な入所後は、スムーズにプログラムが進んでいった?

それが、9ヶ月かかっても回復できなかったんですよね。それは、いつまで経っても回復を自分のためと思うことができなかったから。

ワンネスに入所してプログラムを受けようと決意したのは「母のために頑張ろう」という気持ちからでしたし、入所してからも、施設にいる人のために何かをしてあげることだけが嫌なことを忘れられる時間でした。「自分のために良くなろう」とは思えなかった。当然そんなマインドセットでは回復プログラムも上手く進んで行きません。

そんなある日、母が「僕に謝りたいことがある」と施設に来てくれました。そして、「今までは世間体を気にして『映人をどうしようか』ということばかり考えてきた。でもそれは本当の愛情じゃなかった、ごめんね」って言うんです。「わたしはわたしの人生を生きるから、映人は映人の人生を生きてね」と

正直、手のひらを返されたような気持でしたね。だって僕は、母のためにと思って9ヶ月もの施設での辛い生活に耐えてきたんです。それなのに、「映人は映人の人生を」と突き放された。今までの我慢はなんだったんだろう、もう施設をやめよう……そう思いましたね。

―施設をやめてどうしようと思っていた?

とにかく環境を変えなければと思っていました。9ヶ月間で、何も変われていませんでしたから。やめると決めたとき、最後に1度だけ話をしたい人がいたんです。それは、初めて施設に関わりを持ったときに一緒にペンキを塗ってくれたスタッフで。

―どんな話をしたのでしょうか。

いろんな話をする中で「映人、これだけは覚えていてほしい」と言われたんですよね。「映人が施設にいてもいなくても、たとえ薬を使ってても、俺は映人のこと愛してるからね」って。

その言葉を聞いて、勝手に涙が出てきました。どんな自分でも愛してるなんて言われたのは生まれて初めてだったんですよ。もしかしたら今まで似たようなことは言われてきたのかもしれないけれど、僕自身が真正面からその言葉を受け止められたことはありませんでした。

それまでずっと、サッカーが上手くなければいけない、誰よりも強くなければいけないと思って生きてきました。でももしかしたら誰かより優れていなくても、僕のことを愛してくれる人はいたのかもしれない。独りぼっちなわけじゃなかったんだ――。

僕が生まれて初めて誰かからの愛情を素直に受け取れたのが、22歳のその瞬間でした。そのときに、施設から出ていく選択は消えました。「人を愛すること」をしたい。「自分を愛すること」を知りたい。そこからは夢中でしたね。

―そこから、「自分のための回復」が始まったんですね。

そうですね。今までは「自分には回復なんて無理、放っておいて」というスタンスだったのに、「愛するってなに?何をしたらいい?」という前のめりな姿勢に変わっていきました。

人生の目的は薬をやめることじゃない。自分で自分を愛すること

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▲大自然での生活を謳歌する現在の映人さん(右)

―回復が思うようにいかなかった時期と、自分を愛することに気づいた後とで、どのような心境の変化がありましたか?

回復が上手くいかなかったころは、ワンネスにいる一番の目的は「薬をやめる」だったんですよね。でも、自分を愛することの大切さに気づいてからは、ワンネスにいる理由が「自分を愛しながら生きていきたいから」に変わりました。

すると、ワンネスには、自分を愛する人生にしていくための「道具」がたくさん用意されてるということに気づきはじめました。「依存症(依存している状態)からの回復」は実は道具でしかなくて、本当に目指すべき場所はその先にある。

9ヶ月言われ続けてきたことが線になってつながっていく感覚でした。良くなる、回復する、薬をやめられるというのは「自分を愛する」ということだったんだ、と。

―宮崎で暮らす今は、薬物とは無縁の生活を送っているんでしょうか。

僕自身は、今は依存症(依存している状態)とは遠いところにいますね。ただ、「薬を使わないように頑張ろう!」と思って生きているわけではありません。心の中にあるのは自分を愛したい思いだけ。自分を愛せていれば、薬が作る偽物の幸せに頼らなくても生きていけるとちゃんとわかっているからです。

そんな風に僕自身は薬のない生活が当たり前になりましたが、一方で、宮崎で出会う人の中にも、”良くないこと”に手を出しそうになっている人はいて――。

―そういうときは、どのように声を掛けていますか?

正直、「危ないからやめなよ」と言うのは簡単だし、ディレクターをしていたくらいだから「こうしなさい」と教えることもできてしまうんですよね。でも僕は、あえてそうしません。

僕が彼らに伝えているのは「好きなように生きな。僕がおるから」ってことだけ。それは、そのままの彼らを愛することが、薬だったり、暴力だったり、”良くないこと”が必要のない人生につながっていくと信じているからです。

僕はワンネスで「どんな映人でも愛してるよ」って言ってもらえて、人生が変わった。あの瞬間があったからこそ、今の「自分を愛する生き方」があります。だからこれから出会う仲間にも、愛されてることに気づいてほしいって思うんですよね。

―表面的な対応をとるのではなく、その人の本質を見つめて愛するということですね。

おっしゃる通りです。真っすぐ愛情を伝えてあげれば、いつかはその愛情を受け止めることができるようになると思うんです。そうすると、誰かのことを信頼できたり、自分の感情を大切にできたりと、ウェルビーイングの土台ができていくはずです。

だからこそ僕は、誰かに自分の価値観を押し付けず、ただその人のことを見守り、愛していきたい。今の僕が、これから出会うであろう大切な人たちに伝えていきたいものは、「愛情」。本当に、それだけなんですよね。

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インタビューを終えようとしたとき、映人さんは小さな声で言いました。

「人生は短い。遠回りせずに愛を伝えないとね。」

孤独に苦しみ、愛情を素直に受け取れないまま”遠回り”を続けてきた映人さん。彼が自分と同じ苦しみを抱える人たちに、そしてその家族に本当に伝えたかったのは、この一言だったのかもしれません。

(書き手:中野 里穂)

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