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第十二話

 夢を見ている。

 いつもの夢。怖い夢。

 校門の桜の下で、迎えの車をが来るのを待っていた時だった。いきなり名前を呼ばれた爽は驚いて顔を上げた。

 卒業式が終わって、クラスメイトたちは写真を撮ったり、連絡先を交換したりしている。彼らはこれからカラオケやファミレスへ繰り出すのだろう。クラス委員に誘われはしたが、どうせ義理に決まっているし、疲れたし面倒なので早々に断ってしまった。

 だから、突然数人の女子生徒に呼び止められ写真を撮らせろと言われた爽は激しく動揺した。勿論そんなことは初めてだし、そもそも人付き合いは苦手だった。中学の三年間、休みがちだった爽はクラスでも浮いた存在だったし、その上女子と話したことは数える程だった。それなのに、彼女たちはやけに馴れ馴れしく話しかけてくる。自分の反応の何が面白いのか、勝手に盛り上がって大爆笑する様子に、爽はただ困惑するばかりだった。

 女子生徒たちの後ろに、長い黒髪をお下げにした小柄で大人しそうな少女がいた。つくりものの様な綺麗な顔はやや青冷めて、薄い唇を固く結んでいる。「ゆり」と呼ばれたその少女は、自分のスマートフォンを握り締め俯いたままだ。まるでお人形のような彼女からは他の女子生徒たちと毛色の違う、育ちの良さが感じられる。そのせいか、何か浮世離れして見えた。

 早く早くと責め立てられて、押し出されるように隣に立ったゆりと初めて目が合った瞬間、爽は彼女の視線に縫い付けられたように動けなくなった。背中を冷たい汗が流れる。しかし傍目には二人がずっと見つめ合ったたままなので、女子生徒らは二人を冷やかしながらスマホをかざして煽って来る。兎に角、爽は父が迎えに来る前にこの訳の分からない状況から開放されたかった。

 喉の奥に詰まった何かをなんとか飲み下し、蚊の鳴くような声で「あの」と言ったその時、ゆりはさっきまでの青冷めた頬を紅潮させ、白い歯が見えるほど口角を上げた。初めは罰ゲームでもやらされているんだろうかとも思えたほど消極的だった彼女が、突然強引に腕を絡めてきたので爽は驚いて身をよじった。細身に見えた彼女の、腕に押し付けられた胸の感触は意外なほど豊満で柔らかかった。

 望まない好意は暴力に似ている。爽は刃物を突き付けられているかのような息苦しい心地で離して欲しいと訴えたが言葉にならなかった。ゆりは細い肩を震わせて笑った。揺れた髪の香りが鼻腔をくすぐる。不可解な嫌悪感に囚われたまま、二人で何枚も写真を撮られた。

 やがて、桜の花弁が舞う坂の向こうから父の車が向かってくるのが見えたので、爽は心底ホッとした。

「も、もう行かないと・・・」

 爽が絡まる腕から自分の腕を引き抜こうとすると、ゆりは爽の制服の第二ボタンにそっと触れ、「頂戴」と言った。爽はゆりの黒目がちで濡れたように輝く瞳を美しいと思い、同時に恐ろしいと感じた。まるで操られるように顎を引くと、ゆりは手を掛けたボタンを細い指で引き千切ったのだった。

 まるで、魂を毟り取られたみたいだった。心臓が凍ったように冷たくなっていくのを感じて、爽は逃げるように父の車の後部座席に倒れ込んだ。

 「何だ、具合悪いのか?」

 車に乗るや否や吸入器を口にあてがう息子を見て父が聞いてきた。

「どうしたぁ、緊張しちゃったかぁ?」

「・・・・。」

「見てたぞぉ。女の子に囲まれてたじゃないかぁ。やるなあ、お前~。ケケケッ。」

 父のウザさより、今も身体を押し付けられた腕に残る感触にゾッとする。女子に第二ボタンをねだられるなどという時代錯誤のお約束など廃れたと思っていたのに、まさか自分が遭遇するとは想像すらしていなかった。

「気持ちわる。」

 自分でもまだなぜなのか判らない。この嫌悪感は何処から来るのか、まだ誰にも打ち明けていない。考えると時々苦しくなる。喘息とは違う息苦しさだ。

「着いたら起こして。」

「おう。お疲れさん。」

 爽は後部座席のシートにパタンと横になった。心地いい揺れに身を任せ目を閉じると、微睡みはすぐにやって来たが、瞼に彼女の瞳が浮かびハッと目覚める。

「卒業おめでとう。」

 父の言葉に再び目を閉じ、それからずっと、長くて怖い夢を見続けている。 

                  * 

 先を行く白い傘を追い掛けて、長い坂道を下る。住宅街に人気は無く、民家の明かりも皆落ちている。雨がゴボゴボと音を立てて流れ込む排水溝を避けて、左に折れると大通りに出た。

 白い傘は雨に滲んだ街頭の明かりを受けて、浮かんだり消えたり。ただ濡れたアスファルトの感触を感じながら、引かれるように後を追っていた。息を切らせて気がつくと、眼前に雨に煙った巨大な白い要塞が広がっている。白い傘はどんどん先へ躍るように先へ進んで行く。濡れた鉄扉によじ登り門の内側に飛び降りると、脚がもつれてそのまま地面についた手を擦りむいた。鉄条網で足首に掻き傷ができて血が出たが痛みは感じなかった。

 グラウンドは雨の音に包まれて、世界から隔離されたように心細い。ぬかるんだ地面に、錆びたバスケットボールのゴールポストが巨人の様に佇んでいる。独り真っ暗な何も無い空間に取り残され、白い傘を探して辺りを見回すと、遠くの空に細く光が走るのが見えた。
 
 まだ遠い稲妻。雨の粒がパタパタと顔に当たる。掌で避けながら校舎の屋上を見上げると___________。

 いつの間にか雨音は蝉の鳴き声に変わっていた。

 辺りは眩しい真夏の日差しに包まれ、花壇には背伸びした向日葵が揺れている。ふと隣を見ると、白い日傘を差した聖名が立っていた。蝉の声に掻き消され声は聞こえなかったが、握った拳を伸ばし自分に何かを渡そうとしている。

 開いた掌に乗っていたのは制服のボタンだった。

 ぎょっとして相手の顔を見返すと、それは「ゆり」だった。あの日千切られた魂の欠片は今も彼女の手の中に握られたままだ。

 逃れられない、と爽は呻いた。


序〜第三話、はてなブログからの転載です。