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「(K)not」第十七話

 月曜日の朝。

 惰性で階段を降り、寝汗を洗い流そうと浴室へ向かう有馬の背後から、

「ゆうちゃんゆうちゃん。」

 と呼び止める小さな声がした。殆ど閉じたままの瞼を精一杯開いて振り返ると、

「ねえ、ここ知ってる?」

 スマホの地図アプリを見せながら聞いてきたのは窓架だった。朝の挨拶もないまま問いかける様子を見ると、有馬が起きるのをずっと待っていたようだった。

「おれ、今日ここに行きたいんだけど。」

と、目的地への最短距離を知っているかも知れないという期待のこもった目で更に見つめる。有馬はスマホの画面を暫くジッと見つめてから、

「知ってるって言うか・・・知ってっけど~。お前、晴さんにお許しはもらったのかよ?」

 窓架はまだ中学生である。夏休み中の外出には保護者の同伴が必要な年頃だ。そしてその同伴を疎ましく感じ始める年頃でもある。適当な返事を寄越した瞬のあからさまに嘘だとわかる態度に、有馬は迷った。大人として駄目だと言ってしまいたかったが、言ったところで大人しく従うタマでも無いことをよく承知している。

「そうか。何しに行くんだ?」

「デートだよ。」

 有馬は絶句した。シレっと言ったがこれも嘘か。つまり、親に内緒で言えないことをしに行くということだ。しかし、再開発される度、迷路のように複雑化した駅周辺で迷子になった上に悪質な大人に誑かされても困る。

「じゃ、どうせだし俺と一緒に行くか。」

「ホント!?」

 瞬は顔をパッと輝かせて二階に駆け上がっていった。

 失踪事件から一夜明け、あれだけの大乱闘を繰り広げた二人も結局元の鞘に収まり、久しぶりに穏やかな日曜日だと思っていたのに、昨晩遅く正一郎と晴三郎の言い争う声を聞いた。案の定、今朝の晴三郎は目を深海魚のように濁らせて、静かに深く怒っている。学校が夏休みの今、瞬には逃げ場が無かった。
 
 このまま家に居ても呼吸困難で酸欠に陥りそうだった彼は唐突に、

『明日ここに来てくれる?』

 と言うマチヤチノの声を思い出したのだった。

 瞬は、有馬がシャワーと朝食を済ませている間に「図書館に行く」と言って先に家を出た。急ぐ訳もないのに自然と小走りになる。瞬は13歳にして足のサイズは既に25㎝あった。メンズ用ドクターマーチンをの紐をきつく結び直していると、自分が浮き足立っていることに気付く。身体の芯からムクムクと湧き上がる高揚感に思わず叫び出しそうになるのを堪えて身震いした。

 有馬は大学を中退してから、二年ほど飲食店でアルバイトした後、今の勤め先に就職した。それまで夕方出掛けて明け方帰宅していた有馬が、朝出勤し夜帰宅する普通の生活サイクルになったことだけは把握していたが、正一郎以外、有馬がどんな仕事をしているのか知らなかった。しかしそれは瞬にとってとても好奇心を唆られることだった。

 有馬が家を出て駅前まで来ると、ニヤニヤした瞬が後を着いて来た。

「尾行してたの、気付いた?」

「お前、その頭で尾行とか言う?」

 とお互い歯を見せて、合流した二人は改札へ続く階段を上がった。

 地上から地下へ路線が移り終着駅へ滑り込んだ電車を降りると、大勢の人間が同じ方向に向かって流れ出す。流されるままエスカレーターに乗り駅構内に出ると巨大迷路が広がっていた。世界各国の文字で表示されたインフォメーション、カラフルな色の記号が散りばめられたマップ、雑踏、流れる音楽と光。S駅は情報と人種のルツボだ。目的地へたどり着くには、やはり水先案内ユウマがいなければ難しいだろう。瞬には、迷宮の中を大きなストロークでスイスイと進んで行く有馬を追いかけるのが精一杯で、周りの店舗に興味を唆られる暇も無かった。

 2020年代にパンデミックを起こしたウイルスがあった。それをきっかけに、世界は様変わりした、ように見えたが、それはそこに向かうべく周到に準備された道を、ただ選択させられているようでもあった。普遍的価値は決壊し、多様性を歓迎する時代になっても、人々はその営みを止めようとはせず相も変わらず蠢き続けていた。

 人の数だけ欲望があり、欲望が集えばがカタチを成す。物質として存在する欲望はまた人を惹き寄せ、更に欲望を吸い大きくなる。そして欲望は長い時を積み重ね、繁殖や継承や文化と様々に呼名を変え、いつしか「尊いもの」として価値を得た。価値は時代と共にカタチを変えながら更に多くの欲望を惹き寄せ、際限なく拡張してゆく。満たされてもなお渇く、終わらないマッチポンプ。それが人の営みの正体だ。

 街は欲望の混沌ふきだまりだ。やっとビルの隙間に空が見える場所に出たところで、瞬は息苦しさに喘いだ。どうやら呼吸することも忘れていたようだった。広い空間に出たとて空気は大して美味くもないし、見上げる空も狭い。それでも瞬の胸は否応なしに高鳴っていた。いつも自分の中で持て余している退屈という名の怪物は、今日はすっかり大人しく身を潜めている。この街がそうさせるのか、ある種の万能感に酔いしれて、瞬はいつしか有馬と肩を並べ大股で闊歩していた。


序〜第三話、はてなブログからの転載です。