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第三話

 帰りの電車に乗る駅の改札口で、瞬が突然「友達と会うからこのまま残る。」と言い出した。心配性の晴三郎が中学生を一人繁華街へ置いていくことに良い顔をしなかったので、和二郎が付き添うことになった。

「全く、マドはいつも急に言い出すんだから。」

 手を振る二人に見送られエスカレーターに乗った晴三郎は、何度も振り返りながらブツブツ呟いている。

「言い出したら聞かないし。親子ですねえ。」
 と襟人が笑うと、晴三郎は困ったように口をへの字にしている。

 階下で流れるアナウンスと共に、滑り込んで来た電車の風圧に煽られながら、エスカレーターのステップを降りる。足早に地下鉄に乗り込んで、皆それぞれに腰を下すが、晴三郎と襟人は扉付近に立ったままでいる。何処か寄って行くところがあるようで、ついでに夕飯の買い物も済ませてくると言い、いそいそと降りて行った。次いで正一郎が大学病院前で降りるとシートを立つと、一緒に行くと理紀が付いて降りた。

 二人を見送ったあと、このまま仕事に戻るため終点まで乗って行く有馬は、欠伸でも出そうな退屈な移動時間を、流れる地下風景をぼんやり眺めて消費していた。

 自宅の最寄り駅まであと三つのところで、地下鉄は地上に乗り上げる。車窓に反射した西日が眩しくて思わず瞼を閉じたその時だった。隣で熟睡していると思っていた爽がガクガクと震え出し、突然嘔吐したのだ。

「えっ!?」

 騒然となった車内で更に二度三度、爽は苦しそうに吐いた。食事に殆ど手を付けていなかったのか、消化物は見当たらず胃液ばかりだった。彼は自分に起こったことが信じられない様子で、口元を抑えて呆然としている。そして見る見るうちに顔面蒼白になり、のめり込むように倒れた。

 「おい爽!」

 動揺していたがしっかりと爽の身体を支えた有馬が、もう一度名前を呼んだが、既に意識が朦朧としてしまっている。やがて電車のドアが開くと、有馬の脇に抱えられるようにして駅のホームに連れ出された爽は、そのまま床に転がってぐったりと動かなくなった。

 乗り合わせた誰かが、非常ベルを押してくれたようだ。電車は一時停車して、慌ただしく急病人を知らせるアナウンスが流れると、直ぐに若い駅員たちが駆け付けて来て手早く吐瀉物を片付け始めた。自力で歩けそうにない爽の様子を見た年配の駅員が、担架を出すか有馬に尋ねたが、

「あざス。大丈夫ス、運ぶっス。」

 有馬は踞る爽をひっくり返し、軽々担ぎ上げると、駅員の誘導に従って救護室へ急行した。

                  *

    改札前で手を振って、エスカレーターに乗った姿が地下へ吸い込まれて行くと辺りは急に静かになった。瞬はひとつ深呼吸をして気持ちを切り替える。バックポケットから取り出したスマートフォンの画面から、Instagramのアイコンをタップする。自分のアカウント「madgreen666」に届いたコメントを読み返しているとやはりちょっと不安になる。送り主は、

「maccha _cream_Frappucino」

今日、これからどこの誰とも分からないアカウントの持ち主とオフ会することになってしまったのだ。約束などスッポかしてしまえばそれまで、相手もどこまで本気なんだか分かったものではない。実際、彼は現実的で合理的な性格なはずだった。

「おう、お待たせ。キミは見つけ易くていいな。」

    和二郎が駅構内のトイレから戻ってきた。甥っ子の鮮やかな緑色の髪に感心した様で頭を撫でる。手は洗ったのだと信じよう。

「待ち合わせ、もうすぐだっけか。」

「そう16時。あと10分だよ、急ごう。」

    二人は帰宅する人々の流れに逆らうように地下道を抜けて、元町のカフェを目指す。

 約束の時間は少し過ぎていた。石畳の道に広い出入り口を構えた某大手コーヒーショップ元町店。その女神が微笑むテラス席には欧米人のカップルがボルゾイとシェパードをわきに侍らせ、隙のないセレブリティオーラを発している。瞬が自分より大きくて賢そうな犬の横顔に見蕩れていると、和二郎のスマートフォンが鳴った。多忙な彼には休日にも仕事の連絡が入ることがある。出版業界の働き方改革は進んでいないようだ。

「えっ、爽が?」

    不意に和二郎の声が大きくなる。仕事の連絡ではなさそうだ。窓架の視線に気付いた和二郎は拝むような仕草で応えた。

                  *

 案内された部屋は駅員の仮眠室で、三畳ほどの広さだった。簡易ベッドが一台置いてあるだけの、名前の通り仮眠をとるだけの部屋だった。スペースを仕切るパーティションはあるが、天井が執務室と繋がっていて空調が効いている。有馬は爽を簡易ベッドに下ろし、軽く頬を叩いてやると反応があった。意識はあるようだ。有馬はテキパキと爽の靴を脱がせ衣服を緩めると部屋を出た。
 和二郎に連絡して事情を話しスマホを切ると、年配の駅員が話しかけて来た。

「今日は特に暑いからねえ、熱中症になる人も増えてるみたいよ。」

「ねっちゅうしょう・・・俺、何か冷やすもん買ってきます・・・!」

 有馬は乗務員室を出て駅のコンビニで経口補水液と冷えピタシートを購入し、飛んで戻った。

 明かりを落とした薄暗い部屋の中、覗き込んだ爽の顔を見てドキリとする。濃いクマのせいで眼球部分が落ち窪んで見え、唇も荒れて紫色だった。呼吸も浅く薄い胸が微かに上下していなければ完全に死んでいるように見える。

「おおい、生きてるか?」

    呼びかけると薄っすら目を開けて応える。長い睫毛が青白い頬に影を落としている。「ひでえ顔。」と言って有馬は爽の鼻をつまんでやったが、嫌がりもせずそのまま目を閉じるとスースー寝息を立て始めた。
「お前、しばらくここで休ませてもらえ。わじさんすぐ来てくれるから安心しろ。」
 有馬はひとつ息を吐き、眠る爽に話しかけた。

                  *

 仮眠室のドアの向こうで聞き慣れた叔父の声がする。薄暗がりで、独り横たわる彼の傍にいると、微かに自分を呼ぶ声を聞いた気がした。近付くと、閉じた瞼から涙が溢れていた。

 彼の涙を見た途端、激しく動揺し、何かに縫い付けられた様に動けなくなった。ただ呆然と立ち尽くし、止まった思考とは裏腹に張り裂けそうな心臓の鼓動がこめかみに響き、グラグラと脳を揺らした。


序〜第三話、はてなブログからの転載です。