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からっぽな私が「書くこと」で生きていくことを決めた理由


ずっと、からっぽな人間だと思っていた。

自分の中の引き出しを開けても、何も入っていない。だからいつも、何かで埋めようとしていた。



小さい頃から「自分の欲求」というものが言えなかった。
欲しいものがあっても親の顔色を伺い、「お姉ちゃんだから」と我慢した。
そのうち、本当に欲しいものより少し安くて親が喜びそうなものを「欲しい」と言うようになった。
そうしているうちに、欲しいものがなんなのか、分からなくなった。

小学4、5年生の頃だったと思う。
「将来の夢」を作文に書き、文集にすることになった。
歌が好きだった私の夢は、歌手になることだった。
当時、自分とそんなに年齢が違わないアイドルグループがテレビで堂々と歌い踊っているのをみて、純粋に憧れた。 

でも、「歌手になりたい」とは書けなかった。
同じクラスにダンススクールへ通っている女の子がいた。クラスでも目立つグループにいるその子は、堂々と周囲に「将来は歌手になりたい」と話していた。

あんなふうにはなれない。

そして何より、その子に同じ夢を持っていることを知られたくなかった。
「比べられる」と直感的に思った。その子と自分を比べられることが、恥ずかしかった。


結局書いたのは「美容師になりたい」だった。
理由は、祖母が過去に美容師をやっていたから家族が喜んでくれると思ったのと、ハサミを動かす姿がカッコよかったから。
当時10歳だった私にとって、一番イメージできる「恥ずかしくない仕事」だった。
まるっきり嘘ではないから、書いて、読んでみると「美容師になるのが夢」という気がしてくるから不思議だ。

言葉にすると、本当になっていくんだ。
「言葉の力」みたいなものを感じた、初めての出来事だった。


それから美容師にもならず、もちろん歌手にもならず、ぼんやりと生きていたらあっという間に就職活動に突入した。
「やりたいこと」も「できること」も浮かばない私は案の定苦戦し、やっと就職が決まったその年の春、弟が亡くなった。


「いつかこの人生も終わってしまうのだ」という残酷な現実に直面した。
「お前はどう生きて、どう死ぬんだ」という大きな問いを、目の前に突きつけられているようだった。
どうせ死ぬのなら。だったら「歌手になりたい」という小さな頃の夢を叶えようと決めたのが、20歳の夏だった。

結果、歌手にはなれなかった。
弟が亡くなった次の年、単身で福岡に移住した。週1回作詞作曲のレッスンを受けながらアルバイトで生活する日々。福岡での生活に慣れ始めた頃、過食が始まった。急激な変化で心のバランスが崩れていたのだと思う。

誰にも言えなかった。週1回のレッスンでこっそり体重計に乗って「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせていた。次第にギターに触れる回数が減り、レッスンを休みがちになった。アルバイトで忙しいことを理由にして、歌う時間も減っていった。やっと見つけた「やりたいこと」から目を背け続けた。

それから少し経って、音楽をとおして知り合った人たちとバンドを始めた。自分以外の誰かと話をすることで、少しずつ過食は収まっていった。
でも、福岡での生活は2年で終えることにした。「デビューするだけが歌手じゃないから」と言い訳めいたことを理由にしながら、自分は何を歌いたいのか、また分からなくなっていた。

からっぽだった私が唯一見つけた夢に、なぜ全力で打ち込めなかったんだろう。
札幌に戻ってからも、その後悔は小さな石のようにずっと残り続けた。

「ライターとは、からっぽの存在である」

「書く人の教科書」と銘打ったその本に書かれていた一文を見た時、私の中に残っていた、小さな石が動いた。
福岡から札幌に戻ってきてから、10年以上が過ぎていた。

30歳で福祉の資格を取り、身体的・精神的にハンディを持つ方と一緒に働くようになった。そんな中で何度も、自分の中身のなさを自覚させられた。

大学の課題でレポートを書くとき。実習で「何を感じたか」「何を学んだか」を聞かれたとき。職場で上司や同僚に「あなたはどう思うか」と聞かれたとき。
すぐに教科書やどこかで読んだ本の言葉や、誰かの言葉を探そうとしてしまう自分がいた。自分よりも先に周りを見てしまう癖が抜けなかった。でも、その癖を自覚し始めていた頃でもあった。
自覚するきっかけが「書くこと」だった。

「自分が何を感じているのか」を言葉にして、形にする。
形にすると、「ない」ものが「ある」ものになる。
「ああ、私にもあった」と安心する。見つけた、と嬉しくなる。
そうして少しずつ、言葉が溜まっていくのが心地よかった。

そんなとき、知人が「ライティングの仕事をやってみない?」と声をかけてくれた。そして貸してくれたのが、『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(古賀史健著)だった。

「ライターとは、からっぽの存在である」

だから取材をする。取材をして、からっぽな自分を満たしていく。そして最後にライターが書くのは「からっぽな自分を満たしてくれたすべての人や物ごとに宛てた『ありがとうの返事』」である、とその本には書かれていた。

こんなにも心が動いたのは、小さな頃の夢を叶えようとした時以来だった。
自分の欲しいものが「欲しい」と言えなかった小さな私に、手を差し伸べて抱きしめたくなった。
「そんなあなただからこそ、できることがあったよ」と。

あの時、自分の夢を偽った10歳の私に。
あの時、夢を叶えようと一人で葛藤してた20歳の私に。

あなたなりに必死に生きていてくれてありがとう、と伝えたくなった。

そうして35歳で、ライターとして生きていく道を選んだ。


まだまだ自分なりの『ありがとうの返事』を書くのには苦労するし、つい「誰かの言葉」に頼ろうとしてしまう。でも、「自分の感覚を信じていい」と思える仕事に出会えることは、なんて幸運だろう。
自分を信じること。
書くことで、私は自分を信じることを許可することができた。

自分を信じていいんだよ。

小さな私にこれからも伝えられるように、書き続けたい。
からっぽな私のままで、堂々と。


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